七大寺巡礼私記随行 

はじめに《解題を兼ねて》 

『七大寺巡礼私記』は、平安時代末期に、散位(位階はあるが官職のない者)の大江親通(?〜1150)という人が、南都(奈良)の大寺を見巡った記録である。親通の詳しい履歴は分かっていない。わずかに元亨2年(1322)に臨済宗の僧・虎関師錬(12781346)が著した、唐・宋やわが国の上古から鎌倉時代にいたるまでの仏教関係者の列伝と諸寺・仏事についての雑録である『元亨釈書』の第17に「文士の秀なり」として、いくつかのエピソードと共に紹介されている。〈散位〉というのだから位階は4位か5位の(侍従から地方長官職相当)の“貧乏貴族”だったであろう。『釈書』にも「家産少なきも、恬淡として自ら守る」としている。そして、俗世界にいて仏教を重んじ、教典の中の仏舎利に関する文献類を集めたという。大江氏は文化系に人材を輩出して平安時代には大江千里・匡衡・嘉言が「三十六歌仙」に選ばれているし、匡房のような兵法にも長じた大学者もいる。しかし、政治・軍事的には振るわなかったようで、親通も官位はありながら、政権内で役職がないのだから、当然学問に身を入れるざるを得ず、親通は仏教の研究に励んだ結果が南都七大寺の巡礼につながったのだろう。

 そんな親通が、嘉承元年に奈良の名刹を訪ね、現状を記録して『七大寺日記』を著した。七大寺というが東大寺・大安寺・西大寺・興福寺・元興寺・薬師寺・法隆寺のほか()招提寺が加えられ、巡礼の対象は“八大寺”になっている。元来「大寺」とは官立の寺である「おおでら」のことであり、その点では藤原氏の氏寺である興福寺は「大寺」には入らないが、11世紀中葉まで宮廷で権勢をふるった藤原家の氏寺であり、平安時代には「大寺」は規模の大きい寺と解して七大寺にくりこまれたのであろう。唐招提寺は、薬師寺に行けば至近にあり、また聖武天皇が菩薩戒を受けた高僧・鑑真和上が開いた寺で規模も小さくない。立ち寄らないはずがない。そこで“番外”のような考えで、つけ加えられたものであろう。

   それから34年たった保延6年(1140)に再び南都古寺を歴訪してできたのが『七大寺巡礼私記』である。巡礼は親通の仏教信仰が基盤になっているが、特にこのころ盛んになりつつあった末法思想・浄土思想に押され、また平安遷都から200年を経て繁栄の度を失いつつあった、飛鳥時代以来の伝統を誇る奈良の名刹の現状を見つめようという気持ちが強かったと思われる。そのため、各寺とも堂塔や仏像の記録が主体で、自己の感想や意見はほとんど記されていないばかりでなく、巡礼の道すがらの描写もない。それより34年後に再訪してできた『巡礼私記』では、道中描写ないが、各寺とも歴史・伝説など、文学的記述がも加えられ、全体の分量は、ほぼ5倍になっている。これは親通が、後世のために記録性を一層強めておく必要を感じたからだろう。

   当時、各寺は奈良時代の絢爛さを失い、末法思想の台頭もあって、筆者をして堂舎の衰退を嘆かせる状態にあった。そこで、それぞれの言い伝えや現状を記録して後世に残そうとして著されたのが本編である。

現状や言い伝えの記録であるから、個人的な感想はあまり述べられていない。そして特に注目されるのは「建物や仏像の美しさとか立派さとかは、それぞれの人の目や心によって好悪の違いがある」と断言し、拝観した対象の優劣の判断は見る人に任すべきであると言う、美や芸術に対する根本態度を示していることである。現代にしばしば見られる《絵を読む》とか《名作の条件》とかいった類の、たぶんに独りよがりの自説を得々としてひけらかす、作家や評論家らに比べて、はるかに“鑑賞の道”を心得ている。ただ、特に気に入った作については「神妙なり」(立派だ)とか「見るべし」などと、自分なりの評価はしている。しかし読む者は、そんなことは気にするなと言っているようだ。

 筆者は『七大寺日記』を著した時期よりも、堂塔にせよ仏像にせよ破損の進行が激しいとあって、それを悼む気持ちで再度の巡礼となった。そして、出来上がった本著作は前作より遥かに詳しい内容になっている。原文では、2度の巡礼の間の年数を36年としているが、これは筆者の計算違いで、実際は34年である。

近来この日記の成立と『七大寺日記』との関係にについて、学界では筆者が2度にわたって奈良を訪れ、見たまま聞いたままを単純に記録したということに、疑いが持たれる傾向があるように見える。しかしそれは、警察官が挙動に不審を抱いた相手に対し、状況証拠で犯罪事実を証明しようとするようなもので、一般の読者にとって誰が、どのようにして書いたものであったにせよ、教養として、趣味として、何かに利用――例えば観光旅行の参考にするために使う限りは、どうでもいいことで、書かれた内容がいかに疑わしくとも、書かれていることが明白な間違いであり、世人に間違った認識と物心にわたるダメージを与えることが具体的・物理的に証明されない限り“推定無罪”なのだ。『枕草子』や『徒然草』に部分的な間違いがあっても、全体として無価値とは出来ない。『海道記』を鴨長明の作だとされていたとしても、学者や好事家以外の者は何の迷惑も蒙っていなかったはずだ。真実が分かれば、その部分だけを訂正すればよい事で、一般読者にとって、内容が面白く、大体において理に適い、正確であればいいのだ。従ってこの『訳註』も、書かれたままをおおむね忠実にトレースし、解釈や考証は“面白さ”を優先し、余談も加えた。学校の授業で教科書の講義よりも余談の方が身に着いたのと同様と考えるからである。

 本編は1957年、早稲田大学第一文学部美術専修の演習で使われた、ガリ版の藤田經世編『校刊美術資料・七大寺巡礼私記』(1982、中央公論美術出版『公刊美術資料・寺院編上巻』に収録)を底本に、奈良文化財研究所刊の印影本を参照して、読み下しにして解説を付したものである。先にwebで公開した『道の幸・訳註』と同じく、親通に約870の時間を隔てながらも随行するような形で、記された事柄を検証したり、時には異論を唱えたり冷やかしもする。しかし、根本にあるのは、この記録を残してくれ、時空を超えた旅の案内役になり、想像の楽しみを与えてくれた親通への尊敬の念である。


凡例

漢字・仮名遣いは原則として常用漢字・現代仮名遣いにした。

原文は改行や柱立て、見出し付けが一定のルールに従って行なわれていない。そこで訳註     に当たっては読みやすさを考えて、適当に行なった。タイトルになる部分は独立させ、続けて書かれた小字のも別行にせず、字の大きさも変えていない。

数字は原文のままにし、文中の註に当たる丸括弧内は算用数字にした。

註・解説の部分は、活字のポイントを落とし、書体を変えた。

文中で註をつけると煩雑・長文になる箇所には補注で解説し、印で示した。

文の理解を助けるため、語句を補った箇所は二重山括弧《 》で囲んで示した。

原文の明らかに誤字・脱字と思われる箇所は訂正・補完して、ゴチック体にした。ただし、意訳で他の語に置き換えた場合は、この限りではない。

図書・文献の名は『 』で囲んで示した。

原文の欠字は●で示した。

原本に無く『校刊美術資料』『印影本』で補われている文字や語句は、活字のポイントを落としゴチック体にし、【 】で囲んだ。

丈尺寸のメートル法への換算は、原文の表記が曲尺で、1尺=30.3cmとして換算した。

原本は法隆寺蔵の子写本であるが、末尾の法隆寺の項の末尾部分が失われている。その部分は『七大寺日記』の文で補った。

原文では、しばしば註釈が小字で、二行に分けてかかれているが、本訳註では読みやすさを勘案して、本文と同様に扱った。

註の部分では、本書を『私記』と略した。また『七大寺日記』は『日記』と略した。

八方手を尽くして調べたつもりでも、なお意味不明の字句は斜体文字で表した。諸賢のご教示をお願いする。

文中に出てくる人物については、敬称を全て略させていただいた。


  七大寺巡礼私記

           散位 大江親通

 私は(諸寺院の)堂舎や仏像の美しく見事な様子を拝見しようと、長い間、京洛で名所に出かけたり、優れた仏像を訪ねたりして、参詣してきましたが、まだ十分に目的を達成していません。かつて嘉祥元年(1106)の秋に、南都へ行き(そこで諸寺を)巡礼をして『七大寺日記』を著しましたが、これは何と言っても仏教が衰退しているのを惜しむ心からです。嘉承の頃には、諸寺の多くは傷んでいましたが、それから三十六年たちました。その間に《諸寺院の》破損の進み具合はさらにひどくなったようです。そんなわけで、以前に記録したことは《今になってみれば》興味深いというものの、当時巡礼して《見聞したことと現状には、かなりの違いがあるでしょう》。そこで保延六年(1140)三月十五日、再び巡礼したところ、諸《寺の堂舎や仏像の破損は、拝見しようとしたもの半分にも及んでいました》。仏教の衰退は残念だし、悲しむべきことです。《ところで》建物や仏像の美しさとか立派さとかは、それぞれの人の目や心によって違いがあるもので、ここに書き留めたことは、私の拙い鑑賞眼による独断であって、多くの人とっては、役に立たないものでしょう。

三十六年=実際には34年。解題参照。

東大寺

一、東大寺の(堂舎の)高さ・広さ・寸法や柱・戸・棟などについて

大仏殿一棟、二重。高さは十二丈六尺(38.1b)。あるいは十二丈一尺四寸(36.7b)だともいう。東西の長さ()は二十九丈(87.8b)、南北の広さ(奥行き)は、十七丈(51.5b)ある。七間四面で、裳層がついている。つまり屋根が二重ということだ。下(の屋根)は十一間で、(そのうちの)真ん中の一間(の柱と柱の間の幅)は三丈(9.1b)。その左右の四間はそれぞれ二丈九尺(8.8b)のまた左右の四間はそれぞれ二丈二尺(7.2b)だ。柱は八十四本あり、末端(上方)の口径は●尺、基礎の方の口径は三尺八寸(1.14b)である。二十八本は長さ(高さ)がそれぞれ七丈(21.2b)、二十八本は六丈六尺(20b)、二十八本は三丈(9b)。(柱には)みな絵が描かれている。言い伝えでは恵理僧都が描いたのだそうだ。


 創  建当初の大仏殿のスケールが記されている。現在の大仏殿正面の幅は57bだから、63%ほどに“縮んで”いるわけだ。7間4面という7間は、長さのことではなく、建物の正面の柱と柱の間――そこは壁だったり扉だったり吹き放しだったりする――が七つということで、つまり柱は8本だ。4間というのは、建物の横側の柱の間隔数で、柱は5本だ。裳階(もこし)は屋根の下につけられた庇(ひさし)のようなもので、建物を外から見ると2階建てのように見える(実際は、内部は吹き抜け)。裳階の一番顕著な例は、奈良・西ノ京の薬師寺の三重塔で、それぞれの階の屋根に裳階がある。そのため6重の唐のように見える(薬師寺の「東西二基の塔」の項参照)。

 柱 柱に絵を描いたという《恵理僧都》とは、どんな人か詳しいことは分からない。1780年に秋里籬島が著した『都名所図会』には、京都・山科の上醍醐寺の薬師堂本尊を作ったとしている。


一、仏・菩薩などの寸法や印相について

 中尊(本尊)は金銅製の盧舎那仏の像は結跏趺坐している。高さは五丈二尺(15.75b)、《寺の》縁起によれば、或いは五丈三尺(16b)だろうか。左手は五本の指を伸ばして、掌を上に向けて左の膝の上に置いている。右手も五本の指を伸ばし、掌を外に向け、肘を上げている。掌に朱で文様が描かれているが、八輪のようなものを基本にして、いろいろと変化をつけたものだ。[巧匠※の従四位下兼造東大寺司次官の国中連公麻呂の作]。眉間にある白毫は、銀で作られている。大きさは一斗《の分量》を収納できる鉢ぐらいだ.

以下、括弧内の「普賢観教に出て来る」までは『校刊美術資料・寺院編』の『図像集』による補充=肉髻※の高はさは三尺(90a)だ。螺髪※は九百六十個あり、高さは一尺(30a)で、直径は六寸(18a)。顔や手足の寸法などは、縁起に書いてあるから《ここで》細かい注釈はつけない。それにつけても、この像の事をこの寺の僧たちは誰もが大日《如来》だというが、これは間違いだろう。もし華厳経の中心の仏《である大日如来》ならば、《儀軌※に従えば》宝冠をかぶって、瓔珞(仏像の装身具)をつけていなければならないはずだ。ところが《この仏は》螺髪だけ《(それ故に)大日《如来》であるという考えは、とても理解しがたいものだ。謹んで考えてみれば、胎蔵界釈迦院※の釈迦の脇侍は左が観世音、右が虚空蔵《各菩薩》で、こうしたことを踏まえて見れば、この仏の脇侍はまさにそのとおりである。そこで(この像は)「葉上の大釈迦」であることが知られる。また《この仏が》座っている蓮の葉には、多数の化佛が線刻されているが、これは《この仏を釈迦とするには》少々厄介なことではあるが、ある文には「摩訶毘盧舎那如来、またの名釈迦牟尼如来妙法教主に帰命す……」と言う言葉があり、この文に照らせば、釈迦を大日だと言うのに、何も問題はないだろう。また、釈迦を大日と言うことは、普賢観経に出て来る》。


大仏の高さが5丈2尺というのは、どんな資料によったものか知られないが、「縁起」には、5丈3尺とされているとして、どちらとも決めていないが、この「縁起」というのが、どんな「縁起」なのかわからない。東大寺の「縁起」といえば、正倉院蔵の「銅版の銘文」が思い起こされるが、この文によれば53尺5寸になっている。15bの巨大像で、30a(あるいは45a)の違いは、誤差の範囲内のようにも思えるが、親通にしてみれば看過できない違いだったのか?

   国中連公麻呂(?〜774)は、百済からの渡来人の子孫。「肉髻の高さ……」以下の『図像集』から引用した記述からは、現在は盧舎那佛とされている大仏を、当時の僧たちは大日如来だと思っていたことがわかる。儀軌は密教の、仏・菩薩らを図像にする際の、衣装や装身具や持ち物やポーズなどの表現の規定。筆者は、いろいろ考えて、釈迦も大日も“同じ仏”と結論付けているが、やや苦しい。この仏が座っている蓮の台座には、仏の像が線刻されているのが、判断の邪魔になったような書きぶりだが、この線刻は一部が現在も残っている。

『図像集』は、平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけての学僧・興然(11211204)が著した、各尊像の図像集で、この書の文中に「或る記に云う」として、他文献の記事を引用しているが、その「或る記」というのが『七大寺巡礼私記』だと『校刊美術資料』(藤田経世編、1972年中央公論美術出版刊)は指摘している。

 ※結跏趺坐=両足の裏を見せるようにして組んで組み合わせて座ったポーズ。

  ※縁起寺の起源・歴史、またはそれを記した文書

  ※八輪宝輪のことと思われる。仏が教えを説くことを、またはその教えを図式化したもの

  ※巧匠技量に優れた技術者。

白亳仏の眉間にある白い巻き毛を表現したもの。仏の備えた32の身体的特徴(三十二相)の一つ。

図像集=ある主題を絵画や彫刻で表現する場合、形態・装飾・色彩などの規定をの図を集めたもので、この場合、仏・菩薩らを視覚化する際の決まりを示す。『阿娑縛抄』『別尊雑記』などがある。ここで言う『図像集』は京都・勧修寺の興然(11211204)の著書。

肉髻仏の頭の頂にある盛り上がり。三十二相の一つ。元来は髻を表現したものだったと考えられている。

  ※「らほつ」と読む。髪の毛の表現だが、巻貝のように見えるので、この名がある。

  ※儀軌=主として密教の儀式や作法、図像を造るときの身体的特徴やポーズ、異称や装身具についての決まり。

  ※胎蔵界釈迦院仏教の思想を図像化した曼荼羅の中に「釈迦院」という区画がある。中央に釈迦が描かれている。

   

一、光(背)と化仏の寸法について

  光(背)一基。高さは十一丈(9.4b)、幅が九丈九尺(30b)あり、そこには百三十六体の金銅製の菩薩坐像がついている。言い伝えでは、須弥山についている像は。周丈六 (の大きさ)だという。


 背 光背の化仏が「周丈六」だというのは「丈六」の仏像の半分の背丈ということ。丈六は立像の身高が16尺(4.8b)で、坐像なら8尺(2.4b)。周丈六なら立像で2.4b、坐像で1.2bで、光背に付いている像なら坐像だろうが、たいていのお寺の本尊程度の仏像が光背に付いていたわけだ。須弥山は「仏教の宇宙観で、宇宙の中心をなす巨大な山」(中村元ら編『岩波仏教辞典』)。大仏の蓮弁には、線刻の須弥山が見られるが、光背の須弥山も線刻だったのだろう。


一、脇侍菩薩の寸法について

 《金》色の《埝の》菩薩坐像が二体。大きさは、それぞれ三丈(9b)で、どちらも八角の須弥座に《結跏趺座して》座り、おのおの《金》色の蓮華の花《を持っている》。左は観世音菩薩の像で、尼・信勝の願によるものだ。右は虚空蔵菩薩の像で、頭の頂に三十五の化仏がある。これは尼・善の願によるものだ。この二菩薩は、本尊《が置かれている石》の座(基壇)の外に、別に《設けられた》須弥座に坐して、裾を垂らしている。《願主の》二人の尼は、天平勝宝元年巳丑(749)四月八日に《像を》創り始めて、同三年辛卯九月二十三日《に完成した》。


   「埝」は塑像のこと。結跏趺坐で9bもあるという巨大像だ。現在、日本の最大の塑像は奈良県明日香村の岡寺本尊の如意輪観音像(奈良時代=重要文化財)の4.6bだから、さすがは大仏の脇時である。しかし“泥製”というのは、経済力が脇侍も銅製にはできなかったか。「」は印影本で見ると字の扁が虫食い?で欠けている。他の資料により補われているが、従来「ねん」と読まれ、塑像のこととされているが、この字の正しい読み方は「てん」で、意味は「低い」である。一方「捻」の字は「ねん」と読み、意味は「ひねる」で、塑像は土を捻って作るのだから、この字を使うのが妥当だろう。しかしどういうわけか、手偏が土扁にとって代わられ、そのまま使われていると思われる。平安時代初期にできた仏教説話集『日本国現報善悪霊異記』(『霊異記』と略される)に収められた東大寺法華堂の塑像「執金剛神」伝説では、この像を「〓」(攝津の攝の手偏が土扁=しょう)としている。塑像のつもりらしいが、この字の読みは「セフ=しょう」で意味は「鉢」だ(諸橋轍次『大漢和辞典』による)。どうしてこの字が使われたか、わからない。

   この二尊を作るスポンサー(願主)になった「信勝」「善光」の二人の尼は、二月堂の「修二会」(お水取り)で読み上げられる『修中過去帳』に名が出てくる。信勝は、8世紀に飛鳥にあった坂田寺(尼寺)の尼僧だったという。

  ※修中過去帳=正しくは『東大寺上院修中過去帳』といい、寺の建立や維持・教学に功績のあった人の“名簿”。

供養のために、一人一人の名前を読み上げる。一命だけ氏名不詳で「青衣の女人」と呼ばれる人がまじっており、喜多流能楽の演目に取り上げられている。


一、繍の大曼荼羅の寸法について

 菩薩の立像(の曼荼羅)が二点〈鋪〉あり、それぞれ縦五丈四尺(16.3b)、幅二丈八尺四寸(8.6b)ある。一つは二十臂の不空羂索《観音》の像で、もう一つは観自在菩薩の像だ。この二点の曼荼羅は、一枚仕立てになっていて、継ぎ目がない。本当に不思議なもので、大変注目に値する。毎年三月十四日に行われる華厳会の際に懸け、それ以外の時に開くの大変難しい。開くのに多くの人手が要るからだ。


    「繍」は「ぬいとり」で「繍の曼荼羅」は、多様な色の糸で図像が表出された曼荼羅である。2鋪というのだから、別々の掛け物になっているはずだが、一枚仕立てだという。それならば、はじめから幅17.2bの幅で作られたと考えるのが普通で、親通はなぜ「一鋪」と言わなかったか、継ぎ目がない以上に不思議である。

     それにしても、幅が17bとは巨大である。ルーヴル美術館の最大の絵はヴェネローゼ(152888)の『カナの婚礼』の幅は9.94bで総面積は67.3平方b。畳の数に換算すると40畳敷きに相当する。ちょっとしたマンション並みの面積である。その2倍以上の大きさだから、親通も1枚ものとは思えず、そのうえ観音が2尊だから、別々に作られたものが一つになったと考えたのだろう。そこで、継ぎ目が無いのが「不可思議」だと言う。親通は、よく「不可思議」と言う言葉を使う。その意味は、奇妙だとか、風変わりだとか、様々な意味に受け取れるが、結局は自分の理解や知識の及ばない事を言うのだろう。

この曼荼羅は刺繍だから、保存のためにはいつも堂内に掛けておくわけにはゆかない。また、しょっちゅう展示したり収蔵したりはできないのは当然だ。そこで「華厳会」でのみ見られる。華厳会は『華厳経』を読んで、国家安泰を祈る行事。東大寺の華厳会は特に有名で、『東大寺要録』には『華厳会縁起』という、この儀式の起源を記した文がある。

  ※二十臂=「八面六臂の大活躍」というように、臂は「肘=手」で、六本も手があるように多方面に活躍することで、二十臂は手が20本ということ。不空羂索観音は、奈良・東大寺法華堂本尊のように、一面(顔は一つ)三目(眼は三つ)八臂(手が八本)として表現されることが多いが、その他にも三面、ニ臂、四臂、八臂像などの像がある。しかし二十臂と言うのは、あまり例が無いようだ。

   ※東大寺要録=平安時代末期にできた、東大寺の記録集。鎌倉時代になって『東大寺続要録』もできて、永禄

4年(1180)に焼失・復興以後の状況や出来事をまとめている。


一、四天王像の寸法について

  の四天王像四体。高さはそれぞれ三丈七尺(11.2b)だが、四丈だともいう。これらの像の足の下に鬼形は、横になった長さはそれぞれ二丈八尺(8.4・b)で、高さは三尺(90a)だ。この四体は、天平宝字二年(758)五月二十七日に、名工・李田次麿に命じて、まず東南の角の像を作らせ、その彩色が終わってから、他の三体を作った。


 脇 脇侍と同じような巨像だが、武将だからか脇侍よりも2b余も高い。現在、東大寺の戒壇院には、塑像の四天王(国宝)が伝わっているが、傑作ではあるが大きさは等身大だ。この奈良時代の四天王が、戒壇院のもののような出来ばえだったとしたら、さぞ壮観であっただろう。「鬼形」は、いまでは「邪鬼」というのが普通。仏法を害する“悪者”で、四天王に踏みつけられて、苦悶の表情をしている。作者の杢田次麿はどんな人か分からないが、奈良時代の仏師で名前が分かっているのは珍しい。親通は、この名を誰かから聞いたのか、或いはこの頃には、記録が残っていたのだろうか。四天王の制作は同時進行ではなかったようで、全部揃うまで、かなりの歳月が必要だっただろう。

    

一、仏殿内の装飾や器具について

 金銅製の六角燈篭殿一基 高さは四尺五寸(1.36b)で、この燈篭は《本尊のまん前の》石の座の上にある。蓮の花の葉と茎をデザインした台の上に、宝形の火袋を載せている。

ある人の言う事には、この燈篭は《元は》興福寺東金堂のものだったが、東大寺二月堂の賓頭尊者の像を、山階大衆(興福寺の僧ら)に強奪された代わりに、東大寺側がこの燈篭を盗み取って、《大》仏の前に置いたのだとか。


「灯()篭殿」は、単に「灯篭」でいいのだが、屋根があり、堂舎のような形だから、建物の意味である《殿》をつけたのだろう。現在、東大寺・大仏殿の前に立つ堂の灯篭のミニチュアとおもえばよい。『信貴山縁起絵巻』の「尼公の巻」に描かれた大仏殿の場面で、大仏の正面、蓮華座の上に載っているように見えるものが、それだろう。手前に描かれた石灯籠のように見えるのが、現存の音声菩薩を表出した銅の灯篭(国宝)である。

   この灯篭は、元はと言えば興福寺東金堂のものだったという。「お水取り」で有名な、二月堂にあった「おびんずる様」と言われる像を興福寺の僧らに奪われたので、報復にこの灯篭を盗んで来たという、乱暴な曰くつきの代物だ。寺同士で仏像や器具の移動は、さして珍しい事ではなかったようで、各種の記録で《元は何々寺のもの》といった記述は、しばしば見られる。それも、単に譲り受けたり、廃寺同様のてらのものを勝手に持ってくると言うような“穏便”な方法ばかりではなく、押し込み強盗的なケースもあった。治承4年(1180)の平重衡による南都焼き討ちで、東金堂の本尊を失くした興福寺は、大衆(僧侶ら)が、飛鳥の山田寺に押しかけ、銅像の釈迦如来像を奪い取ってきた。現在、同寺にある奈良時代の作の銅製仏頭(国宝)は、その残欠である

  ※ 宝形=宝珠形というほうが適切か。丈夫の先端がとがった玉葱】のような格好。


青瓷の花瓶二つ  一斗のものが入るぐらい《の大きさ》。この瓶は石座の上、燈篭の左右に置いてある。白蓮華の造花が立てられている。


    この花瓶は『信貴山縁起絵巻』では、それらしいものは、見当たらない。一斗を入れるというのだから、一升(1.8 g)瓶が10本分の体積だが、大仏の前では目立たなかっただろう。

 『東大寺要録』の「供養章」には大仏の開眼供養には「種々の造花」が飾られたと書かれているが、どんな様子だったかは分からない

     鏡台が二脚  この鏡台は石の座の上にあって、仏前の左右に立てられている。脚は外に開いた形で、それぞれに二面の鏡が懸けてあり、一枚は北向き、もう一枚は南向きだ。《鏡の》直径は三尺六寸(1.08b)ぐらい。左側の鏡台の裏側の鏡は四角で、他の三枚は円形である。四角い鏡には文様があり、海印三昧図に似ていて、線刻で表されている。詳しいことを調べてみなくてはならない。


鏡は『信貴山縁起絵巻』に描かれている。灯篭殿の左右の二脚の背の高い台(鏡台)に取り付けられている。ただし、『私記』の記述では、左右の鏡はそれぞれ2面の鏡が表裏に取り付けられているようだが、それは絵からは分からない。鏡台の脚も絵で見る限り垂直だ。

 ※海印三昧=仏が華厳経を説くに当たっての、心静に何事にも動じない状態。海印三昧図はその様子を視覚化したもの。


金銅の大火舎一個  周囲の長さ一丈(3b)、高さ二尺五寸(75a)。八脚の木製の台があり、その高さは三尺五寸(1.05b)、黒漆塗り《で、火者はその上に置かれている》。この火舎は本尊の真ん前、基壇の下にあり、形は伏せた鉢を重ねたようで、脚が四本ついている。《その足は》子が頭を下にして、足を合わせた格好で、頭には二本の角がある。毎日、香を一斗入れて、一昼夜のうちに焚き薫らせるという。 

  火舎は香炉である。これも『信貴山縁起絵巻』に見られる。『私記』に記載の通り台に載っているが、台は黒く、脚は湾曲していて、数は5本である。しかも、表面は平らな木製のように見える。『信貴山縁起絵巻』は1157年から80年の間に制作されたと考えられているから(村重寧『信貴山縁起絵巻』1979年岩崎出版社)、親通が東大寺をした1140年とは、最大でも40年しか経っていない。従って『私記』の記述と絵巻の描写の間には、状況的にさして変わり生じるようには思えないが、それでも食い違いがあるのは、1140年以後に何らかの理由で状況が変化したと思わざるを得ない。或いは記述か描写のいずれか、またはどちらにも誤りがあったかだが、記述の方は、無いものをあるようにはかかないだろう。一方、絵の方はあるものを省略することは、しばしば行われるから、当時の大仏殿内の様子を復原しようとするなら、記述に基づいて絵巻を補完するのが妥当だろう。


金銅の花瓶二個  高さ三尺五寸(45a)、黒漆塗りの八脚の台に載っている。この瓶は火舎の左右にある。形は水樽に似ていて、唐草文が線刻されている。大きさは三斗(54g)のものが入るぐらいで、造花の蓮華を立ててある。


  青瓷製のほかに、銅製の花瓶もあったようだ。しかも、青瓷製の3倍ほどの大きさだ。これにも蓮華の造花がたてられていた。本尊の盧舎那佛は、蓮華から生まれた広大な世界の中心の大蓮華の上に座して、多数の仏を集めて説法したとされている。大仏もの台座も造花も、この考えに基づくものだ。


磬一枚  幅三尺三寸(1b)、厚さ七寸(21a)。この磬は仏の右前の《石》壇の下にある。


   「磬」は《ケイ》と読む。古くは玉製のものもあるが大抵は石か金属製で、「へ」の字型をしており、その頂点に紐を付けて吊るし、打ち鳴らす楽器。一個でも複数でも使われる。

瑪瑙の局一基 白色で、三尺五寸(1.05b)角、厚さ六寸(18a)。この局は仏の前の左方、石壇の下にある。その表面には十二の穴があいている。《穴の》深さは一寸(3a)、口径は七分(2.1a)ほど。

ある説によると、このは灯篭殿の基盤だった。《その上にあった》燈篭は興福寺の連中に奪われたという。またあるいは、七宝塔の壇だったとかいう。事実はは調べてみなければ分からない。


 磬は『信貴山縁起絵巻』には見えないが、「局」は火舎の左右に見られる。碁盤のような格好だが、「局」は元来が《仕切り》または《狭い》などとともに《碁盤》の意がある。囲碁・将棋の対戦を《一局》というのは、これが語源となっている。お役所などで「○○局」と言えば、大きな組織の中の、狭い(限られた)部分の仕事を担当する機関と言うことになる。記述で気になるのは、この局が《1基》だとあることだ。現代の感覚からすれば、1基は1個のことと思われるが『絵巻』には明瞭に2個見える。あるいは、一基は一つの“基本的”セットと考えたのか。

表面に穴が開いているのも、なぜだか理解しにくい。その上に何かが載っていたというのだから、載っていた物の脚をはめたものか?それが灯篭だったとすると、またして興福寺の連中に奪われた次第で、平安時代の興福寺の僧らは比叡山の僧兵と並んで、かなりの“ワル”だったようだ。他の寺事はよく分からないが、この二つの寺の僧は、格別ひどかったようだ。


縁起板一枚  縦八尺(2.4b)余り、幅は三尺六寸(1.08b)ほど。このは衝立障子のようだ。仏前の右方の柱の下部にある。その板には、縁の文と仏菩薩の日記が記されている。


この「縁起板」は、どんなものか推測する手がかりが無い。『絵巻』にも見えない。大仏殿内の柱が描かれていないのだから、これが見えるはずもんqい。「詔」は、『東大寺要録』の「縁起章」の冒頭に「大仏殿碑文 障子銘文也」として記載されているものだろう。それは、聖武天皇の大仏造立発願から完成の簡単な経過と、大仏の細部のデータである。


漆塗の厨子六脚  高さ六尺(1.8b)ぐらい。これらの厨子のうち、三つは東と南の天王像の前にあり、二つは西を向き、一つは南を向いている。《また残りの》三つは西と南の二天の像の後壁の西側にある。それら《厨子》の内部には、それぞれ棚があって、経論などが置いてある。扉の内側には絵が描かれているが、た易くは開けない。不思議なことだ。言い伝えでは、《絵は、巨勢》金岡が描いたのだという。


仏堂の中に厨子があるのは珍しくないが、六つもあるというのは、流石に広いスペースを持つ大仏殿なればこそだろう。東と南の二天は、それぞれ持国天と増長天で、西の天は広目天である。

四天王は、それぞれ東西南北の守護神だが、像になって飾られる場合、持国天を本尊の真東に置けば、増長天は本尊南面する本尊のまん前に立つことになる。これでは本尊を礼拝する都合が悪いと、それぞれ45度ずつ右にずらした。従って厨子は大仏の周りに、あちこちを向いて置かれていたことと思われる。現在の各寺院の厨子には、秘仏や本尊が納められていることが多いが、ここにあった厨子の中には経典類が収められていたという。と言うことは、厨子は戸棚の役目をしていたものか。それならば、広い大仏殿だから他に置き場が無かったものかと思ってしまうが、なぜこうなったか理由は分からない。扉の内側に絵を描いたと言う巨勢金岡は、平安初期の“巨匠”とされているが、確かに彼のものという作品は残っていない。


金銅の菩薩立像 高さは六尺(1.8b)ほど。この像は、仏殿の西の庇の下に、東向きに安置されている。北端には十一面、次に不空羂索、南端は十一面《各観音》である。誰の発願で作ったのか。もともとこの寺にあったものか、他の堂にあった仏なのだろうか。

  

金堂内には、大仏・脇侍・四天王のほかにもいろいろ仏像があったようだが、これらの由来については、親通も知ることはできなかったようだ。


柱一本 彩色されている。この柱も(菩薩立像と同じく)西の庇の内側にあり、鎖で繋がれている。言い伝えでは、この柱は大仏殿建立の際に、図体があまりにも大きかったので、使うことができず、《せっかく》漢の地から飛んで来たとはいえ、寸法が適当でなかったの《で役に立たなかったの》を恥ずかしく思い、逃げ去ろうとしたところを捕らえて、繋いだのだと言う。また、別の説では、この柱は本尊の後ろの柱だったが、仏や菩薩の絵がたくさん描いてあった。それが本尊の後ろに山を築くことになり、絵が埋もれてしまうというので、抜き取って繋いであるという。

ある人が言うには〈私はこの柱について聞いたことがある〉という。その話とは、むかし葛木〈城〉山の仙人たちが、《各地の》名山を巡って、金峯山に帰ろうとした時に、ある仙人が言うには

 「夜も更けたうえに、(これから通ろうとする)道は、人里にかかっている。だから、山の方を飛行して行こう」

すると別の仙人が

「わしらはずいぶん長いこと人間の格好をしていないし、神通力を得ているのだ。(仮に)人間に見られたところで、どうと言うこともないじゃないか。山の方を回っていたら時間がかかる。《金峯山まで》直接空を飛んで行ったら、早く着けるぞ」

などと二人の仙人は言い争った挙句、一人の仙人は山の方を飛んで行った。もう一人の仙人は、人里経由で空を飛んで行ったがその途中、真下に久米川の流れが見えた。そこには女が座り込んで、洗濯をしていた。その肌がむっちりしていて真っ白なのを見て、仙人は急に色欲が出て、とたんに女の側に墜落した。神通力は消えてしまい、再び空中に飛び上がることはできなかった。女は驚いて、どうした事か事情を尋ねると

「わしは仙人なのじゃが、お前を見てにわかに色欲を出してしまい、神通力を失くして、この有様じゃ」

女は哀れに思って、自分の家に連れてかえった。数ヶ月間療養をさせたが、そのうちとうとうできてしまい、仙人は俗人に戻って二人は夫婦になった。彼は土地の官庁から税の割り当てがあると、その度ごとに《住民代表として》役人と交渉した。そこで里人たちは、彼を村の長にした。久米郷では公文書を発行することが多く、《村長は》名や捺印することがよくあった。その場合の戸籍名は『前の仙人久米宿弥』とした。落ちた所の地名を姓にしたのだ。東大寺が建立されるに当たって、例に柱は山から引き出そうとして、大勢の人夫がかかわったが、動かせなかった。そこで勅命で、諸国から人夫を動因したが、その中にこの元の仙人が、久米郷の人々を率いて参加していて、造寺の役人に《到着の》挨拶をした。この役人は人相を見るのに長けていて、元仙人の顔を見てこう言った。

「あなたはどのような方ですか。とても普通の人には見えません。私は天皇の立てられた願にしたがって、こうした任務にあたっていますが、謹んでお願いいたします。あなたのお力で、この柱を易々と持ち上げてください」

元仙人は、この言葉を聞いて悲しい思いをし、おのれを恥じているようだったが、以前の修行を思い起こし、心の中で仏の加護を祈ったところ、柱は引きもしないのに、自ら動き出して地面から一尺(30a)余り浮き上がり、飛ぶようにして、瞬く間に《東大寺の》工事現場に着いた。(その後)仏の後ろに山を築くというので、柱を抜き取って捨てようとしたが、《柱を飛ばした》仏の偉大な力に感じ入って、そのことを後世に伝えて教訓にしようと繋いでおくのだ。その後元仙人は、小さな庵室をつくり、そこに篭って以前のように修行し、(ついには)空を飛んでどこかへ行ってしまった。その庵室は、大和国十市郡水飲山の麓にあって、今でも損なわれていない。ところで、この柱の事は、寺の縁起にはっていない。ただ伝説があるだけだ。だから多分、作り話が多くて事実は少ないと思われる。


    絵が描かれた柱にまつわる物語が、3種類述べられている。共に大仏殿造営に当たってのことだが、一つは柱の用材が漢(中国)から“勝手に” 飛んできたが、大きすぎて役に立たないので、なぜか恥ずかしがって逃げようとしたのを捕まえて繋いでおいたと言うもの。大きすぎて役に立たないと言うのも不審だが、去ろうとするものを捕まえて繋いでおくなど、理不尽とも言える。或いは出自は分からないが、大仏の後ろの柱で、大仏が後ろに倒れそうになったので、土を盛って支えに使用としたが、そうすると絵が隠れてしまうのを惜しんで、抜き取って道内に置いたという、絵が金岡の描いたものだからと言う理由か。そして、絵が描かれていたのは、この一本だけだったのか。他の柱にも描かれていたのなら、一本ぐらい見えなくなっても大事ない内容に思えるが、この柱の絵は特別のものだったか?何が描かれていたかの記載がないヵら、何とも言えない。

もう一つは『今昔物語』や『元亨釈書』などに見える、奈良県橿原市の「久米寺」の開祖とされる「久米の仙人」にまつわる話だ。仙人は大和国(奈良県)吉野郡国の龍門寺(廃寺)で修行し飛行の術を身につけたが、久米川の上を飛んでいて、川端で若い女が白い“ふくらはぎ”をあらわにして洗濯しているのを見て“欲情” をもよおし、途端に神通力を失って女のそばに落ち、女と夫婦になったと言う。その後、里の村長役をつとめたが『今昔物語』では「高市の都」造営に当たって、また『久米寺流記』や『私記』では東大寺の建立に際して、木材運搬の労役に参加し、法力を取り戻して、巨材を楽々と工事現場に運んだという。『今昔物語』では、同行の村人が彼を「仙人」と呼ぶので、監督の役人が「仙人なら空を飛ばして(運んで)見せろ」とからかわれ、七日七夜の精進決済に夜祈願でして力を取り戻したとしているが、本書では役人が“只者”ではないと見抜いて、本来の力を発揮させたことになっている。『今昔物語』は12世紀初頭にできたと推定されている。本書が著されたのが1140年だから、同時代に二つのタイプの説話が共存していたわけだ。親通は片方だけしかしらなかったのか、双方知っていて“役人賢明説”をとったものか?

親通は超常的な寺伝や伝説の類にも異を唱えることはあまりしないが、久米仙人に関する話は“作り話”だろうとしている。その理由は、寺伝に見えないからのようだ。しかし『私記』の中に紹介される寺伝にもいい加減なものは多々ある。それらに異を唱えない一方でこの話を信じないのは、話の主人公の仙人とは道教のキャラクターで、仏教徒の親通にしてみれば、受け入れ難いものだったのだろうか。


  ※高市の都=奈良県高市郡は明日香村のあるところ。飛鳥・奈良時代には飛鳥岡本宮、小懇田(おはりだ)宮、藤原宮など多くの宮跡がある。ここでは旧高市郡、現在の橿原市にある、日本初の城坊制を布いた藤原宮だと思われる。巨材を用いる建築物がたてられた可能性が一番高い。

 

一、座の高さと広さについて

 《大仏がお座りになる》御座一基。二層の造りになっている。上の層は金銅の《円》座で、高さは一丈(3b)で直径は六丈八尺(20.6b)ある。周囲は上の方が二十一丈四尺(64.8b)で、基礎部の円周は二三丈九尺(72.4b)である。下の層は石造りで、上部の周囲は三四丈七尺(105b)、基礎部では三九丈五尺(120b)ある。この銅の台座は、天平勝宝四年(752)二月十六日に工事を始めて、同八年七月二十九日までの、足掛け五年間で鋳造が完成した。

 

 大仏の開眼供養は天平勝宝449日だから、台座は工事が始まったばかりで、開眼供養は行われたということだ。大仏鋳造については、後に詳しい記述がある。


一,仏前の裂けた地面は何時裂けたのか

 大仏殿の内部の地面は掌のように平らだが、光明皇后が堂に入った日に、正面の戸の内側が突然裂けた。その場所は今でも平らでなく、少し窪んだ所がある。それからというものは、女は堂の中に入らないことになっている。

 

   本邦仏教の女人禁制の“はしり”のような話である。光明皇后が入堂したのはいつのことか分からないが、堂ができたのは天平宝字2(758)で、光明皇后が死んだのは同4年だから、まずはこの2年の間の出来事だったであろう。平なことの形容に、現代なら「鏡のように」とか言うところを「掌のように……」と言っているのが面白い。鏡ほどではなくとも、他にもっと平らなものは無かったのか――とも言いたくなるが、当時の堂内には多少の皺(しわ)状の起伏があったものか?

   この女人禁制も出来事があった直後から、どれだけ続いていたか。『信貴山縁起絵巻』(尼公の巻)の大仏殿の場面では、尼公は明らかに殿内で祈願している。『信貴山縁起絵巻』が描かれたのは、親通が2度にわたる巡礼をしていたのとほぼ同時代だから、12世紀初頭には既に女子の入堂は認められていて、親通は東寺の事実を記したのではなく、単に過去の説話を紹介しただけなのだろう。


一、大仏殿の上部に書かれた雷神の名前について

 《仏典によると》東の方には阿伽陀王という名の光明電王がいる。南方には設帝王という光明電王がいる。西方には主陀光王という光明電王がいる。北方には蘇多摩王という光明電王がいる。これらの名号が、大仏殿上層の四方の真ん中に書かれていて、どれも十二字二行の文である。言い伝えでは、弘法大師が書いたのだという。


堂の東西南北四面中央の柱にでもあろうか、『今光明最勝王経』に見える「電王」の名が書かれている。「電」は「いなづま=稲妻」である。この四神は平安の守護神で「若()し、住所に此の四王の名を書かば、住所に雷電の怖れなし。また災厄無し」という。つまり避雷針みたいな神様である。各神の名の字は別の文書では「阿伽陀」とか「阿伽多」とか「阿掲多」だったりするなど、多種の表記がされる。  


一、大仏殿の南の庭の大きさと基壇の高さ・広さについて

 庭の広さは東西が五四丈六尺(164b)、南北が六五丈(195b)で、《大仏殿の》基壇の高さは七尺(2.1b)、《東西の》幅は三十二丈六尺(98b)、(南北の)奥行きは三十丈六尺(26b)。


  『私記』も含めて、庭の広さについての記述は大変珍しい。現代の寺院の案内・研究書の類にもほとんど見当たらない。しかし、『奈良七大寺大観・東大寺T』(1970年、岩波書店刊)所載の記事と図から判断して、ここに書かれている前庭の広さは、今も親通の見聞と相違がない。


一、(大仏)殿前の銅の灯篭と石畳・壇について

 銅製の八角形をした灯篭一基。高さは一丈三尺(3.9b)ぐらい。その八つの(火袋の扉の)表面には、それぞれ音楽を演奏している菩薩や獅子などが、レリーフで鋳出されている。みな見慣れない様式である。石畳の壇は、灯篭の側にあり、聖武天皇がこの壇に登られて、鑑真和尚から菩薩戒をお受けになった。

 和尚は《唐の》揚州江陽県の人である。十四歳で智満禅師のもとで僧になり、大寺に住んだ。その寺は後に名を改めて龍興寺になった。唐の中宗(孝和帝)の神元年(705)に道岸律師から菩薩戒を受けた。その後、多くの高僧について経典を深く研究し、仏教を盛んにして大衆を導いた。日本の天平五年癸酉の年(733)に、栄叡・普照という二人の僧が、唐大使の多治比(原文は多墀)真人広成と一緒に唐に渡り学問したが、どの寺でも経典はすべて戒律が仏道に入る正しい道だとしていた。栄叡と普照は、唐に留学すること十年になり、以前から帰国する事を願っていたが、《後から来た》日本の留学僧玄朗・玄法と一緒に揚州に行った。その時、鑑真和上は揚州の大明寺におられ、多くの僧に律を教えていた。栄叡と普照は大明寺へ行き、和尚を礼拝して

【以下、原文では「天皇が税所に登壇して戒を受けた」まで欠字が多く、補完部分を示しにくい】

「日本にお出でになって、受戒の法を伝授なされ、人々を救っていただきたいものでございます」

と申し上げた。和上はこの願いを聞き入れ、天平勝宝六年(754)二月一日に、やっと難波に着いた。三日には河内国に到着、四日に入京した。天皇の仰せで、正四位下安宿王(あすかべおう)を羅生門の外に遣わして、恭しく東大寺にご案内した。五日には、正四位下吉備朝臣真吉備が勅使として

 「朕が東大寺を建立してから十年経ったが、その間ずっと、戒壇を建てて戒律を伝授したいと言う気持ちを、片時も忘れたことはない。今日、徳の高い和上が、はるばると海を越えてこの国にお出でになって戒を授けられることに、大変喜ばしい。今後戒を授け律を伝える事は、すべて和上にお任せいたす」

との詔書を伝達した。同年四月初めに、大仏殿の前に戒壇を築き、天皇が最初に登壇して、戒を受けた。次に皇后・皇太子が同じように登壇して受戒した。後に大仏殿の西に、別に戒壇院をつくり、そこへ天皇が受戒された壇の土をして、《新たな》戒壇を築いた。だから、《今ある》大仏殿の前庭の石畳の壇は、(天皇が受戒した)戒壇の旧跡と言うだけのものだ。


    現在も大仏殿前に立つ灯篭である。火袋のレリーフの音声菩薩(伎楽菩薩)像は、奈良時代の彫刻の傑作とされることも多いが、灯篭全体としては《工芸品》として考えられる。

    寛政4(1792)に、京・大和の古社寺所蔵の古書画の調査でこの寺へ来た幕府祐筆・屋代弘賢は,その際の紀行文『道の幸』で、この灯篭を鉄製で「宋国の仏師陳和卿が此国にて作()しともいひ、又は俊乗坊(重源)が宋国よりわたせしともいひ(言い)、来歴定かならず」としているが、江戸時代には、寺ではそんな説明をしていたのかしら?

     灯篭のどちら側かは分からないが、傍らに聖武天皇が鑑真和上から菩薩戒を受けた「戒壇」の遺構が385年経ってもまだあり、そこから鑑真和上伝についての話となった。鑑真の事跡は、かなりよく知られていると思われるが、安藤更生(190070)の研究と著作(『鑑真』1963年、美術出版社刊など)に詳しい。

 ※戒律=正式な僧になるために守らなくてはならない心得や決まり。“正統的”な修行や手続きを経て、一定の資格を持ったた師僧から授けられる。後に出てくる鑑真が揚州・大明寺で教えていた「律」と言うのは律宗の教義をさす。

  ※天皇天平勝報6年の天皇は孝謙天皇だが、ここで言う天皇は聖武天皇の事で、皇后は皇太后になっていた光明皇后、皇太子というのが、実は天皇である。このことは『続日本紀』》勝報6年の記事には見えず、それゆえに福山敏男は授戒があったことを否定するが、安藤更生により論駁されている。


  1. 南中門一棟

 二重屋根で五間の瓦葺き。《東西の》横幅は六丈一尺(18.3b)、《南北の》奥行きは二丈四尺(7.2b)。この門の南方に二天の像がある。高さは一丈(3b)余り。北方には金鼓がある。直径は三尺(90a)で、行事金(ぎょうじがね)と呼ばれ、台に懸けてある。その金鼓の表面には、須弥山の様子が線刻されている。詳しいことは調べなくてはならない。

 【以下、次行冒頭の「丈六の…」までの間、約二十二行分書かれた紙が失われているようだ】

 丈六の盧舎那仏の堂は、大仏殿から東へ五、六町(550660b)ばかり離れた山上にある。言い伝えでは、銀の仏像が安置されていたことから,銀堂と名づけられた。その《銀の》像は、以前、盗賊に盗まれた。そこで宿直を置いて警護させた。だから《戸を》開くのが難しい。入道前大相国(藤原道長)の、去る治安三年(1023)十月十七日の御修行記には、「《大相国の言われるにはは》この像が被害に会ったのは堂に錠がかけられていなかったからだということで、威儀師の鴻助を呼んで、この堂を修理するよう、材木や資材などは申請すれば供与すると仰せられた。またお供の人々に、それぞれ銀一両を寄付するよう言いつけられ、散位隆佐に各人の名前を記録させて、御餌袋に銀を一垸(18c)づつ入れさせて、鴻助に下げ渡された」とある。またある記録では、銀堂の奥谷に、延長年間(923931)以後、一人の俗人が住んでいて〈山上君〉と名乗っていたが、(やがて)ここに住むのをやめて、《東大寺の》国分門から出て他所へ行った。承平年間(931938)に、坂東で兵乱があり、《その首謀者が》山上君だった。《山上君は》平将門の通称である。《彼の没後の》天慶年間(938947) にこの堂は建てられ、この銀の仏を安置して、銀堂と名づけたのだという。

  

  「中門」は、大仏殿からは左右に回廊が伸び、直角に2度曲がって大仏殿の正面で連結する場所に設けられた門。創建当初の東大寺――他の寺でもほぼ同じ――の境内は壁で仕切られていて、寺への正式の入り口として「南大門」があった。形式は中門・南大門ともに、現存のものと同じような“家屋型”で、横(東西)に少なくとも4本、縦(南北)に同じく3本の柱があり、東西3間の真ん中に扉があり、その左右に南面して「金剛・蜜迹」両力士(仁王)像があり、中門の扉の北側には鰐口が掛けられていたということだ。「行事金(鐘)」と呼ばれるからには、何か事あるたびに打ち鳴らされ、人を呼び集めたものだろう。この《鐘》について親通は「調べなくてはならない」と言っているが、何を調べようと思ったのだろうか。

   紙面の欠落があって、話は「丈六の盧舎那佛の堂」へと移っている。銀の仏だったらしい。そのため“金目のもの”として盗賊に狙われ被害にあった。しかし、その後は宿直を置いて警護するようになったというのは、取り戻せたということか。藤原道長が防犯に一役買って出た。、お供の人は寄付させられて、とんだ迷惑だったのではないか。「威儀師」は寺の役付僧で、法要の際の儀礼の指揮・監督に当たる。銀の仏像は興福寺にもあったようで、今では腕だけがのこっている。

銀佛のあった「銀堂」から東の山の谷間に、平将門が住んでいたという言い伝えがあったようだが、銀堂ができたのは、将門の死の直後であり、何か関係があるかのようにも思われる。

  ※金鼓=鰐口。仏堂の正面の戸の外に掛け、打ち鳴らして祈願をする“鳴り物”。

  ※御餌袋=鷹狩の際の餌を入れるなど、いろいろの用途があったようだが、この場合は“弁当袋”と解せよう。

  ※阪東で兵乱=ほぼ同時期に起きた二つの反乱事件である「承平天慶の乱」のうち、承平の乱を指す。。   


一、羂索院三昧堂一棟

南向き、三間で瓦葺き。金色の不空羂索観音の立像、四天王の像がある。その四天王の像の足の下の鬼は、よく出来ている。この寺は、大仏殿の東の山にある。一般には南無観寺といわれている。

  この堂では、修二会《という》行事を行う。言い伝えでは、毎年二月一日にこの院の宝蔵を開いて、小さな厨子を持ち出して本尊の前に置くが、その中には十一面観音があるという。そして堂の僧たち〈堂衆〉十五六人が、二月一日から堂に篭って、二七日(十四日)の間は、おおっぴらには自分の房から外へ出ないで行に励む。十四日の夜になると、堂衆らはみな金剛鈴を持ち、炬火〈たいまつ〉を逆さまに脇に抱え、火が燃え出したら大声で「南無観」と唱えながら、仏壇の回りを駆け巡る。そのうち弱くて体力のない者は、気を失って倒れ伏す。強くて元気な連中はどんどん走って、最後は一人になる(まで走り続ける)。とても風変わりな特殊の行だ。導師と長老の二人は走らない。導師は金剛鈴を持つ。

  ところで、この堂の本尊の後ろに、等身大の執金剛神の立像が北向きに立っているが、この像は金鷲行者の本尊である。不思議な力を持った霊像だ。目を怒ったように見開いて、口を大きく開け、金剛杵を持っている。左手は、拳を握り下げている。【以下数字、判読不能なものが多いので省略】膝を屈めて爪先立っている。この像の左の髪飾りが欠けている。伝説では、将門が反乱を起こしたとき、この像は朝廷の《平定》祈願に応じて蜂に変身して、戦場を飛び回り、敵軍を撃破した。その際に、将門は劔を振るって(蜂の)片方の羽を切り落とした。その羽とは、この像の左の髪飾りだったのだ。このようにして、首謀者・将門を討ち取りはしたが、大変な霊験を後世に伝えるため、髪飾りの修理はさせないのだとか。この院には閼伽井が二箇所ある。それは三昧堂の北にあり、どちらも六尺(60a)ばかりの、石造の井戸だ。東と西とに分かれているが、繋がってはいない。口伝では、井戸に初めは水がなかった。石を畳み上げた後になってから、天皇が良弁僧に、《水が出るよう》祈祷させられ、僧正の行の様子に感服した若狭国の小入《遠敷》明神が、神力をふるって水を湧き出させたものだ、と言う。


まことに不思議な記述である。現在の法華堂(三月堂)について語っている。

  「羂索院」という塔頭は、現在存在しない。しかし『東大寺要録』の「諸院章」には真っ先に名が挙げられている。そして「金鐘寺と名づく。また金光明寺と改号す」という註釈が付けられている。そして「堂舎一宇、五間一面、禮堂在り」とし、天平5年(733)の創建だという。親通が「三昧堂」としているのは「法華三昧会」が行われる堂であって、本来は「法華三昧堂」であるべきところ、略して「法華堂」または「三昧堂」と二種の呼び方があったのだろう。『東大寺要録』(諸院章)には別に「一、三昧堂」と言う項目があり「法華三昧の行」を行うという。しかし、草創は治安元年(1021)だから、この堂のことではない。現在も三昧堂はあるが、法華堂の西側小さな堂で「四月堂」とも呼ばれる。

金鐘寺は、古くから東大寺の前身だという説があり、現在の「法華堂」(三月堂)に伝わる「執金剛神」像にまつわる伝説がある

この「三昧堂」で「修二会」が行われるというのだから、驚きである。修二会は「お水取り」として知られる奈良時代以来の行事だが、本来の名称は「十一面悔過(会)」だ。2月に儀式が修される (行われる)から「修二会」といい、それが行なわれる場所が法華堂北側の石段の上「京城の東畔、崇山の麓」(要録)にある二月堂で、近くの「若狭井」の水を汲む行事がおり込まれているから「お水取り」という。十一面観音に自分の犯したさまざまな過ちを懺悔して、仏法興隆・天下泰平などを祈願する法会である。その儀式の様子は、ここに書かれている記述と現行のものとでは多少の違いはあるが、ほぼ同様のものだ。

 親通のいう三昧堂は、建物が南向きで、不空羂索観音や執金剛神の像があることから、現在の法華堂であることは動かせない。もし、これらの像の記述が無ければ、親通が二月堂を三月堂だと思い違いをした、いわば単純なミスをしたということも、考えられないでもない。あるいは、親通は、二月堂のこととして聞いた話を、法華堂に当てはめてしまったのかもしれないということも考えられる。彼は修二会を実見してはいない。2度の南都巡礼の初回である1106年の際は「去にし嘉承元年の秋、南都に趣き」であり、第2回の巡礼の1140年には「保延六年三月十五日、重ねて巡礼」したのだから、修二会の記事は実見のレポートではなく、伝聞を記録したに過ぎない。従って二月堂のこととして聞いた話を、そっくり法華堂に当てはめてしまった可能性もあり得る。

そこで考えられることは、修二会は創始された頃には二月堂がなかったので法華堂で行われていて、後に二月堂ができて移ったのではないかと言う仮定である。現在の通説では、修二会は天平勝宝4年(752)に、東大寺開山・良弁僧正の高弟である実忠和尚によって始められ、そのときに二月堂も建立されたと言うが、その事実を裏付ける文献や資料はない。かえって、天平勝宝8歳(756)に作られた「東大寺山堺四至図」には、偏在の法華堂と推定される「羂索堂」は見えても、二月堂は見当たらない。そここで、修二会は当初は羂索堂で行われていて、後日二月堂ができてその方で行われるようになっても、法華堂に平安末期まで“かつて修二会はここで行なわれた”という口伝が残ていて、たまたま親通の知るところとなり、『私記』を著すに当たって混同が生じたのではないかということである。この事の可能性を論じれば(実際過去に論じたことがある)長くなるので、ここでは仮説を提示するにとどめておく。しかし『私記』に二月堂の記事が無いことと併せて、記述全体の正確性・信憑性に疑問を抱かせるものだから、親通流に言えば「考うべし」だ。

「若狭井」の伝説は、福井県小浜市の神宮寺の井戸の水を、十一面観音に供える香水として二月堂がある丘の下に湧く井戸(若狭井)へ送るというもので、古代における若狭と奈良との関係を示す。地図で見ると神宮寺(小浜)は奈良の真北に当たる。『私記』でも『七大寺日記』でも、羂索院の井戸とされており、二月堂の井戸としていないのは、理解しがたい。

=自習したり寝たりするための“個室”。

執金剛神の伝説9世紀前半に作られたと思われる『日本国現報善悪霊異記』などに見られる。像は塑像で、長年秘仏として厨子に入っていたためか、彩色が比較的良く残っている。

かつて論じたことがある19581011日、早稲田大学美術史学界例会で発表。活字化されていない。


一、荒室房

 この房は、《寺の》東僧房の一室だ。大仏殿の北《に建っている》講堂の東にあって、南北に連なる房の南端から二室目である。建立された時から鬼神が住みついて、内装がされていない。そこで荒室というのだ。そのようにして、昔から代々ずっと続いて来て、誰も住む者がいなかった。そこに聖宝僧正が勝手に直系の弟子を住まわせ、寺の管理者には師匠からの許しを受けたと届けておいて、《自分も》その房に住んだ。鬼神はさまざまな形で現れて、《住人》の心を乱そうとしたが効果なく、とうとう他所に移って行った。言い伝えでは、昔(ここに)住もうとした者もいたが、天魔・悪鬼によって気が狂たり死んだりした。それ以来、恐れて誰も住まわなかった。それなのに聖宝僧正は、その後の居住者のために、赤い石に祈りをこめて、その室の敷居の下に埋めて魔除けとし、その後は、住む者に何のさわりも無かった。その石とは元来は元興寺の石だった。横七尺(2.1b)、縦一尺(30a)余りで、僧正は一人で持って来られたとか。また別の話では、金峯山御在所の石だという。僧正は毎日、醍醐から金峯山に参詣されたが、帰りのついでに持ってきて埋めたとしている。本当の所は分からない。

  

   「荒室」は「あれむろ」と読む。僧房も講堂も現在は無い。講堂は大仏殿の真北に近接してあり、その南を除く三方を、僧房が取り囲んでいた。東側の僧房は南北に小さな部屋(房)が連なっているのだが、南から2番目の房「荒室」で、鬼神がすみついていたというのだ。偉大な仏像がある偉大な寺の一角に住みつくとは、かなり厚かましいしい鬼神だが、そんな奴がいるのを知ってか知らずにか、自房として住んだ僧は発狂したり変死したという。そこで聖宝(しょうぼう=832909)僧正の出番となるが、この僧正は、京都・醍醐の「上醍醐寺」の草創者で、吉野の金峯山寺にしばしば通っており、修験道中興の祖ともいわれている。『宇治拾遺物語』に、けちな役僧を凹ませた話が残るような活発な人だったようだから、鬼神ぐらいは何でもなかったのだろう。

魔よけ=原文は「結界」。法力で特定の場所に魔性や悪霊などが侵入できないような、目に見えないバリアを設定すること。

宇治拾遺物語13世紀にできたと思われる、仏教説話や民間伝承を集めた物語集。聖宝僧正に関する話とは、若年で東大寺にいたころ、役僧は部下の僧に供応するのが慣例だったが、ケチでそれをしない役僧がいたので、実行を要求すると、京の葵祭の日に褌一つで干鮭を腰に差して牛に乗り、自分の名を呼ばわりながら町を練れと言う難題を吹っかけられたが、役僧の思惑に反してやり遂げて、一同をもてなさせたというもの。


一、碾磑亭棟

  七間の瓦葺き。碾磑が置かれている。この建物は講堂の東、食堂の北にあり、中に石の唐臼が置かれているが、これを碾磑というのだ。瑪瑙で出来ていて、白色だ。


    碾磑の読みは〈てんがい〉だが、ここでは「てがい」と読む。文中にあるように精米用の石臼だが、ここのは瑪瑙でできていると言うから豪勢だ。果たしてそんな大きな瑪瑙があったものか?後に、寺域の東の三つの門についての記事があるが、この建物に触れられる


一、大湯屋一棟

南向き。差鍋〈サスカナハ〉が一個、足鼎が二個ある。大きさは十五石を入れられる。この建物は大仏殿の東、鐘楼の北にある


  読みは〈おおゆや〉。現在も同じ名前の建物はある。位置も変わってはいないようだ。浴室ではあるが、釜で沸かした湯の湯気で蒸し風呂とするのが一般的だったが、浸身浴もあったようだ。差鍋は湯を沸かす鍋。足鼎の〈鼎〉は三本足の器のことで、古代中国では神に捧げる食品を煮炊きするために使われものでもあった。15石は約2700g。

現在の大湯屋は鎌倉時代初期に立てられ、室町時代に大改修を受けたもので、建久8年(1197)に作られた釜ともども重要文化財。


一、戒壇院

五間四面。瓦葺の堂が二棟あり、大仏殿の西南に位置している。一棟は南向きで、戒壇院という。額があって「菩(薩)戒壇院」と書かれている。一説では弘法大師が書いたとか。《中に》高さは一丈五尺(4.5b)ぐらいの金銅の六重塔が、堂の真ん中に安置されている。言い伝えでは、この塔の下には、聖武天皇の遺骨が埋められているおそうだ。自分の考えでは、祇園精舎の戒壇の塔の下には、迦葉(尊者)の骨を埋めている。そしてこの塔の下には天皇の御骨を埋めたというのは、《もしかしたら》こうした例に倣ったものだろうか。

それから、《誰かが》受戒する日には、戒を受ける者は塔を拝んで右に三回巡り、さらに左に三回巡って、その後に戒を受けるのである。左に巡るということには疑問があったので質問したところ、ある人が言うには

 「仏《像》の後ろには、戒師・教授師・羯磨らの諸師が、南向きに並んで着席する。東の方を上座とするから、東から《礼を》始め三回繰り返し礼をすると、自然に左回りに見えるのだ」

そうだ。


 「院」と言うのは、多くの人や建物の集合の意味で、戒壇院といえば戒律を受ける施設を中心とする小規模な寺院の構成単位。現在の東大寺の戒壇堂はかつては、いくつかの建物で構成された院の中心だったわけで、現在一般に戒壇院と呼ばれている建物も建物自体は戒壇堂で、東大寺の諸広報類にも戒壇院という表記はされていない。

  ここには、天平彫刻の最傑作とも云われる塑像の「四天王像」が伝わっているが、親通の時代には無く、記述がない。東大寺は2度の兵火で堂舎の多くを失い、現在の戒壇堂も江戸時代の建立だから、四天王も元々この建物にあったわけではない。東大寺の戒壇は「殿前の銅の灯篭と石畳・壇について」の項にあるように、大仏殿の前に築かれた。しかし、天平勝宝8歳(756)の年号が入った東大寺の「山堺境界図」には、大仏殿の西に「戒檀院」の区域が四角い枠で示されている。つまり、聖武天皇の受戒の遅くとも7年後には、いくつかの建物による「院」が構成されていたことが分かる。

  聖武天皇の遺骨が金銅塔の下に埋められていると言う伝説を紹介しているが、その真偽はともかく、明治末期に大仏殿の地中から、宝物と一緒に骨と歯が出土しており、また2010年に大仏殿の鎮壇具に成人男子のものと推定される歯が発見され、ともに聖武天皇の歯ではないかという説が出された。聖武天皇に先立つ4代の天皇はみなかそうされているから、聖武天皇もまた火葬され、佐保山南陵に埋葬されたが、遺骨の一部は釈迦の分骨のようにいくつかの場所に埋葬されたのかも知れない。

六重塔=仏塔に、建物の上にドームを載せたような多宝塔は例外として、奇数階のものは無い。六重塔というのは、初層に裳階(もこし=庇)が付いているので、六重のように見えるだけである。

鎮壇具=建築物の安全を祈るため、建物の地下に埋める財宝などの貴重品。


礼盤三脚 堂の西南に、南北に並べて置いてある。言い伝えでは、この礼盤の上には仏像を置かないし、僧たちも上らない。仏像に対するように敬っている。ある人が言う事には、この座はもともと仏像を置かないが、みな菩薩への供物を並べて置く。その菩薩とは、一に豆田那、二に楼至、三に馬蘭那で、みな僧形の菩薩である。


  戒壇堂内の様子の記述である。礼盤は一種のテーブルで、聞いたことの無い菩薩への供物を載せるためのものだという。奇妙な名の菩薩たちは、宝冠や瓔珞を付けずに袈裟をまとった姿だと言うからには。実際に堂内にあったのだろう。

   

一、《堂》一棟

不審堂という。また講堂ともいう。この堂は戒壇の北にある。言い伝えでは、受戒をした者はその日から百日間、ここに篭って修行する。堂童子が、戒を受けた者が(《ゃんと篭って修行して》いるかどうかを知るため、毎日堂の外を巡って、《窓の》連子をかき鳴らして

「不審、不審=どうしてる、どうしてる」

と呼ばわる。これを聞いた(修行中の)比丘たちは、仏の後ろの北向きの戸を開けて外へ出て、それぞれ自分の名を名乗り、堂童子に顔を見せてから、中へ入る。こうした事から、不審堂と名づけられたのだ。《そのようになった経緯は》よく調べてみよう。

 

  戒壇院の中の堂であろう。戒壇堂で戒を受けた僧が篭って、いわば本格的な僧としての初期の“演習”の修行をする。堂付きの俗人の少年雑役係が、棒のようなもので窓の連子をガタガタ鳴らしては「不審」と言う言葉を投げかける。「不審」は何であれ疑問に思うことだが、ここでは「どうしている」を意味すると解せるが、中にいる僧は戸外へ出て名を名乗るというから、点呼をされているわけだ。親通が「良く調べてみよう」と言うのは、この作業の由来でもあろうか。そうだとすると、寺にも起源が分かる人はいなかったとみえる。

 

一、西側の塀にある三門について

南端の第一の門には額がある。二行に十字が書かれていて、その文は「金光明四天王護国之寺」というものだ。その額の縁に、八天の像が浮き彫りにされている。大変珍しいものだ。また、この門があるために、《この寺は》大和国の国分寺となっている。そして、各種の行事がこの門で行われるから「国分御門」と呼ばれる。かつて、平将門は、この門から出て行っ《て東国へ去っ》た。後になって、天慶(年間:938946)以降は戸を閉め切って、今でも開けさせない。第二の門は中御門という。北端の門は碾磑御門という。この門の東方に唐臼を置いた建物がある。それで碾磑御門というのだ。


  「山堺四至図」には、大仏殿はじめ戒壇院・東西両塔・羂索堂・千手堂などを取り囲む“逆コの字”型の囲い(壁)が描かれ、西の壁には南から「西大門」「中門」「碾磑門」の表示が見える。この三つ門に付いての記述で西大門の額は現在に伝わっている。「八天」とは梵天・帝釈天・金剛力士・密迹力士に四天王を加えた構成。この額の字は弘法大師筆だという口伝が江戸時代まではあった。

  「唐臼を置いた建物」と言うのが前に出てきた「碾磑亭」である。『大和名所図会』では「景清門」になっているが、源平合戦で敗れた平氏の生き残り景清が、源頼朝に仇を報じようと、この門に潜んで待ち受けていたと言う伝説による。付近の地名は元来「碾磑町」であったが、昭和中期に読みにくいを理由に、知恵の無い役人によって「手貝町」という、味も素っ気も無い名前に変えられてしまった。換えるなら「景清町」にした方が余程気がきいている。


一、大仏を鋳造申しあげたこと

聖武天皇は良弁僧正の教示に従って、菩薩《戒を受けた者》としての大きな願を立て、この前の辰年に河内国の大県郡の智識寺にお出でになり、盧舎那仏を拝まれて、このような像を作ることを命じられ、広く一般から喜捨する有志を募るよう告示された、天平十五年癸未(743)七月十五日には近江国信楽京で、優秀な技術者に命じて御像を作る計画を立てさせられたが、その事業は中止となった。同十七年(745)乙酉八月十三日に平城宮にお帰りになり、再び造仏の事業を大和国添上郡に移し、像を造り始められた。天皇はお袖に土を入れて(仏の)御座になる場所に運ばれ、《壇に》加えられた。お召しによって集まった人たちも、土を運んで御座を築いた。天平十九年丁亥(747)九月二十八日に鋳造を開始した。天平勝宝元年(749)己丑十月二十四日に、鋳造は完了した。天平十九年から天平勝宝元年までの三カ年の間に、鋳造すること八度に及んで、ようやく工事は完成した。言い伝えでは、それ以前の七度は、成功しなかった。八度目になって、太上天皇《聖武天皇》は勅を下し、僧一万人を呼んで、今回は御体を造るのに成功するよう、祈祷させた。僧らは勅に従って袈裟を着け、香炉五百個を捧げ持って、一心に祈祷した。退出する段になって、再び勅が下され、《僧らは》持っていた香炉をすべて炉の中に投げ入れて、惜しむ者は一人もいなかった。僧らが香炉を投げ入れた後は、御体は早速完成し、傷もなかったという。


  大仏建立の歴史と伝説が語られている。この文によると聖武天皇は天平12年(740)、にはすでに受戒しているように受け取れる。とすれば、744年に鑑真から受けた戒律は“本物”の戒律で、先に受けたのは“仮免許”のようなものだったとでもいうことか?

知識寺は、現在の大阪府柏原市にあったとされる「知識」によって建てられた寺。知識とは経済的・労力的寄進のことで、つまり寺は庶民がスポンサーになって建立された。各地にあったようだが、河内の知識寺は8世紀始めごろの「日本三大仏」と言われた盧舎那佛があった。聖武天皇はこの像を見て、国家的な大仏の建立を思い立った。そこで天平17年(745)に近江の信楽(『東大寺要録』では紫香楽。現在の滋賀県甲賀市信楽町)で工事が始まった。現在、鋳銅所の跡と思われる遺跡が出土している。

信楽は陶器で有名だが相当な山の中である。なぜこんな“山奥”に建立しようとしたのか、おまけに一時は都まで移したのだが、その理由は何であったのか?

 結局、建立は成功せず、造営は都ともども奈良に移るのだが、そこでも工事は難航したようで“七転び八起き”の八度目でやっと鋳造は成功したという。しかし、大仏の鋳造は一気に形が出来上がったものではない。下(膝)の方からの方から、段々と頭部へと“積み重ね”が行なわれた。ミニチュア仏像による大仏復原鋳造は2007年にNHKのハイビジョン番組「東大寺―よみがえる仏の大宇宙」で、鋳造作家・小泉武寛らの手によって行なわれたが、縮小版でもたいした作業だった。

  ※前の辰年=大仏開眼の天平勝宝4年(752)が辰年だからそれを基準にしたもので、何かの記録の引用から、ような文になったものか。


一、八幡大菩薩が大仏を拝まれたこと。

天平勝宝元年(749)七月二日甲午に、孝謙天皇が即位され、同年十一月に天皇と太上天皇と皇太后は、お揃いで東大寺に行幸され、五千人の僧を集めて(共に)大仏を拝まれた。この日、八幡大神も同様に東大寺に参詣され、もろもろの官僚や庶民も大勢集まり、各地の音楽が演奏された。

『類聚国史』が言うには、【《聖武天皇は》「朕は金銅の盧舎那仏を鋳造し奉ろうと、豊前国の宇佐に鎮座されている、八幡大神に幣帛を捧げて《成功を》お祈りさせた」と仰せられた。孝謙天皇の天平勝宝元年十一月己酉に、八幡大神はお告げを発して、京へ向かわれた。大神をお迎え申し上げるために、参議従四位上石河朝臣年足と侍従従五位下藤原朝臣魚名らを遣わされ、道中の諸国には兵士百人を配置して、通過する諸国で(大神の)前後を警備し、道路を汚させなかった。十二月一日戊寅、五位の者十人、散位のもの十人、六衛の舎人各二十人を派遣して、八幡神を平群郡にお迎えし、《八幡神は》この日のうちに京へ入られ、梨原宮に新しく造った御殿が神宮に充てられた。同月十日●●に大神の女の禰宜(ねぎ)である大神朝臣社女(おおみわのあそん・もりめ)は、輿に乗って東大寺に参詣した。天皇・太上天皇・皇太后も行幸された。この日、官僚や上流階級の人たちはすべて寺に集まり、僧五千人を呼んで、仏を拝み、経を読み、各地の楽を演じた】という。

私が考えるところでは、大神が大仏にお参りされたのは、この寺の縁起文でも天平勝宝元年の十一月の事だ。それなのに『類従国史』は天平勝宝元年十二月十日だという。この間の食い違いは、大変不可解だ。どちらが正しいのか、よく調べてみなければならない。


  聖武天皇は天平20年(749)4月にに譲位して娘の孝謙天皇が即位、「天平感宝」と改元し、7月には「天平勝宝」と再改元したこの際に東大寺に詣でたのだが、大仏はまだ完成していない。「八幡大神」も参詣したと言うが、この大神は宇佐八幡宮の祭神である。

  宇佐八幡宮(大分県宇佐市)は全国に4万余ある八幡宮の総本宮。祭神の八幡大神は応神天皇の神霊で、皇室の尊崇があつく、神亀2年(725)に聖武天皇により現在地に神社が像立された(宇佐八幡宮の広報による)。後に、孝謙天皇が重祚(ちょうそ=いったん退位した天皇が再度皇位につくこと)して称徳天皇になり、寵愛する弓削道鏡に譲位しようとして、この神宮に神託を伺い、和気清麻呂の剛直さによって譲位はならなかった史実はよく知られている。

 大変盛大な法会が営まれたようで、各地の音楽が演奏されたというのは、唐・ベトナム・高麗などのことと思われる。

 文の後段には『類聚国史』の記述を引用し、八幡大神の参拝の次第を述べている。もちろん大神が来るのでなく女の神職が代参だ。1119日(己酉)に豊前国(大分県)を出発し、121日戊寅の日に入京したという。しかし『続日本紀』では、到着は1218日(戊寅)である。宇佐〜奈良間は約600kmだから、1日に到着したとすると行程は述べ13日間で、1日の進行速度は約46kmで、これは江戸時代の東海道の壮年男子旅人の平均的な行程は休息を含めて12時間で約40kmと推定されるから、かなり急ピッチである。しかも旅の“主役”は女だから、そんなに早く進めはしないだろう。従って『続日本紀』の18日戊寅に到着渡考えるのが自然だろう。もし、海路(瀬戸内海経由)なら12日での到着も可能だろうが、天皇は道中の諸国に平氏を遣わし警護させ、道路を清掃させたと言うのだから、陸路を取ったのであろう。もし船便だとしたら、当然ながら難波に着くだろうから、大和までの道中は摂津と河内の2国だけである。それを諸国というだろうか。18日到着なら行程は1カ月で、1日約20kmのペースだから、かなり“ごゆっくり”の旅で、女人の旅としては妥当だろう。

 それにしても、親通が「この寺の縁起文」によるとして、八幡大神の参拝を11月のことと考えているのは、どのような資料に頼ったものなのか。『続日本紀』は読んでいなかったのだろうか。『類聚国史』の記述にも誤りがあるようだが、12月と11月を取り違えてはいない。どういうことなのかは「よく調べてみ」ても、分からないだろう。

類聚国史=寛平4(892)に菅原道真によって作られた歴史書。多くの暦所が編年体であるのに、これは神祇・帝王・歳時・職官などの分野別の歴史である。

六衛=宮中の警護や行幸の道中言うの警備に当たった役所、近衛府・衛門府・兵衛府のこと。それぞれ左右があるので六府になる。

 ※梨原宮=平城宮の南部(正確な場所は不明)にあった皇居。宇佐八幡宮が平城宮に勧請された当初は、ここにあったという。その後身が手向山八幡宮である。

 ※禰宜=神職の称号の一つだが、ここでは祭祀の専従者の意味。


一、仏殿の額を定めたこと。

天平勝宝二年庚寅(750)、聖武太上天皇は剃髪して僧衣を着られた。二月二十二日に天皇は、皇太后とご一緒に輿を並べて親しく《東大寺の》伽藍にお出かけになり、大仏を礼拝され、そこで仏殿の名を定められ、「今光明四天王護国之寺」《と法華滅罪之寺》である。今この寺はそのうちの一つである。大和国の国分寺である。《平城宮の》宮殿の東にあるので東大寺(東の大寺)といういうのだ。


仏殿は、単なる寺の堂舎を指すのではなく、東大寺全体を指す。「額を定める」とは名称を決めること。寺院の場合、門に寺名を記した額を掲げることから、このように言われる。親通が記した、天平勝宝2年の(太上)天皇・皇太后の東大寺参詣は『続日本紀』には見えない。しかし、天平勝報2年以降に太政天皇と皇太后に関した記事は病気と逝去についてしかないから、その他の出来事は記述がなくても無かったとは言えない。しかし、その時「金光明四天王護国寺」という寺号を決めたと言うのは事実と違う。聖武天皇は天平13年(741)3月24日に、全国に国分寺と国分尼寺を建立するよう詔を発し、寺号は僧寺の国分寺は「金光明四天王護国之寺」、尼寺は「法華滅罪之寺」にするよう命令している。

天皇=この時点で天皇は孝謙である。従って、皇太后と同行したというなら母の「光明皇后」と行ったことになる。しかし、ここでいう天皇は、「太上」が欠落し、聖武天皇のことを言っていると解される。

東の大寺=大寺は「おおてら」で、官立の寺のこと。しかし、ただ単に「大きな寺」を意味する場合もある。会津八一が唐招提寺で詠んだ「おおてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」の「おおてら」は官寺ではない、規模の大きい寺の意味。


一、《大仏に》鍍金し奉ったこと

縁起によると、天平勝宝四年壬申(752)三月十四日、《大仏に》鍍金(めっき)する作業を始めた。『大菩薩御託宣記』には、次のように記されている。唐国から砂金を輸入しようとして、使者を派遣するに当たって、天平十八年(746)に勅使を立てて《八幡大菩薩に、金が得られるよう》お祈りをさせたところ、大神のお告げでは〈使いを遣わすには及ばない、望むところの黄金は、この国から出してやろう〉ということだった。すると、陸奥国から黄金が献上された。そのうちの百二十両は神宮に奉納された。古老が言い伝えるには、聖武天皇が大仏をお造りになっても、日本にはもともと黄金を産出しないので、金を塗って飾ることが出来なかった。そこで、良弁僧正に命じて金峯山の蔵王〈権現〉に(金をくださるよう)お祈りさせたところ、蔵王は夢の中で僧正にお告げをされた。

「この山の黄金は弥勒仏が世に出られるときのためのもので(大仏鍍金の)役には立てられない。我はただ守護しているだけなのだ。近江国志賀郡勢多の南に小さな山があり、水辺に大きな岩がある。ここは偉大な聖者が現れて多くの人々を救われた所だ。そこへ行って祈願したら、必ず金を得られるだろう」

夢から覚めて《僧正は》さっそく告げられた山に行き、大きな巌を探したところ、老翁が大岩の上で釣りをしており、その側の小さな岩には、船が繋がれていた。僧正は不思議に思って

 「あなたはどなたですか」

と尋ねた。(老翁は)

 「我はこの山の地主の比良明神である。そこは観音菩薩が出現され、多くの衆生を救われた所である」

と答えて、見えなくなった。僧正はその巌の上に小さな庵を作り、金銅の二臂の如意輪観音像を安置して、三七(二十一)日の間、如意輪の秘法を行った。その後、幾月もしないうちに、出羽と陸奥の二つの国で金が掘り出されたとの公文書での報告があり、また、下野国から初めて金が献上された。その砂金を掘り出された日は、まさに僧正が行を修めている時期であった。そこで元号を天平勝宝と改めた。(僧正が)巌の上に建てた堂()は、今の石山寺である。『帝王系図』に書かれていることも、これと同じだ。


 大仏は開眼当時は金色に輝いていた。銅像の鋳造が終わって鍍金したのだが、鍍金に使う金がなかった。そこで中国から輸入しようとしていたところ、幸運にも天平21年2月(749。4月に改元して天平感宝元年、同年7月に再改元して天平勝宝元年となる)に東北地方(陸奥=みちのく)で日本で初めて産出された金がもたらされた。万葉歌人・大伴家持は「天皇(すめろぎ)の御世栄えむと東(あずま)なるみちのく山に金(くがね)花咲く」(万葉巻集18)と詠っている。「感宝」は宝に心が動かされること、「勝宝」は優れた宝と言うことで、どちらも金の産出の喜びを表している。しかし、たった3ヶ月で改元しなければならなかった特別な理由があったのだろうか。

その金が算出されるようになった因縁が述べられているが、桜で有名な吉野山一帯の古い呼び名であるの金峯山(きんぷせん)には金が蔵されているという“信仰”があった事が分かる。良弁は蔵王権現の指示に従って庵を結んだ場所で、如意輪観音の秘法を行なったかどうかはわからないが「造東大寺司石山院」という、東大寺の建設事務所の支所もような施設を置き、建築資材など仏師の流通を図っていた。

  ※鍍金=塗金または滅金とも書く。要するに「めっき」である。滅金はめっきに使う水銀化合物アマルガムのことである

弥勒佛=弥勒はまだ仏(如来)にはなっていない修道者である菩薩だが、釈迦の死後567千万年の後に仏となって、この世を救うとされている。金峯山にあるといわれる黄金は、弥勒が仏となって衆生をすくう際の資金だというわけ。

  ※近江国滋賀郡勢多=現在の滋賀県大津市石山寺の付近一帯。現在は勢多(瀬田)は琵琶湖から流れ出す瀬田川の左岸の地名で、石山寺は「瀬田の唐橋」の下流右岸にある。

  ※出羽と陸奥の二つの国=『続日本紀』には、出羽から金が産出されたとは、記されていない。下野についても同じ。


一、大仏開眼供養について

ある記録によると(天平)勝宝四年(752)壬辰四月九日、大仏開眼の大法会を行った。講師は隆尊律師、読師は延福律師で、菩提僧正を開眼()師とした。諸々の大寺に命じて、漢の音楽を演奏させた。北天竺の僧の仏哲は、幼い頃から瞻波(センパ=チャンパー)国で菩薩舞や部侶の舞などを習得していたので、《日本人に》習わせたという。本寺(東大寺)の流記では、天平勝宝四年(752)四月九日乙酉、天皇は大勢の官僚たちを従えて、東大寺に行幸されて大法会を催され、一万人の僧を招いて、大仏開眼の供養をした。五位以上の者は礼服を着用した。その日の導師は菩提僧正だった。南天笠の波羅門の僧で、名が菩提僧正である。


  大仏開眼供養の様子は『続日本紀』に述べられている。もちろん『東大寺要録』でも詳しい。『続紀』には「仏教の法要でこれほど盛大なのは、欽明天皇13(552)に渡来して以来、かつて無かったこと」と記している。開眼は仏像に“魂”を入れることで、形ばかりだった眼に瞳を描き込む。絵画の「画竜点睛」の“仏像版”だ。その“点睛” をしたのは菩提僧正で、大きな筆で金鍍金された眼に墨で瞳を描いたとされている。菩提僧正の名は波羅遅菩提僊那(バラジ・ボダイセンナ=Bohdaisena:70460) 。天平8年(736)に来日した、インドの僧である。講師を務めた隆尊(706760)は、飛鳥・岡寺(龍蓋寺)の開基・義淵に師事し、元興寺の僧となった。日本に正式の授戒をできる僧がいないことから、唐から高僧を招くことを提唱し、天武天皇の皇子で『日本書紀』編集の中心人物だった舎人皇子に働きかけ、鑑真和上が来日するきっかけを作った人。一緒に来日した仏哲は、瞻波または林邑の人。この国は2世紀から17世紀にかけて、ベトナム中部にあっチャム人の王国。現在、ヒンドゥー教の遺跡「ミーソン聖域」が世界遺産に登録されている。この地方特有の音楽「林邑楽」は、日本の舞楽の一部門になっている。文では、仏哲は北天竺のうまれで、ベトナムで舞を習ったように受け取れるが、実際はベトナム出身で天竺に渡って菩提僊那に師事した。

 ※漢の音楽単純に考ええれば中国のことだが、『東大寺要録』によれば大仏開眼会では、唐をはじめベトナムや朝鮮の音楽も奏せられているとしている。ここでわざわざ当時の中国の国名でない「漢」を使ったのは、中国古代音楽か、中国北部の音楽を意味しているのかも知れない。「ある記録」の筆者は、その音楽が特に印象深かったとも考えられる。

  ※流記=寺院の略史や所有財産を記録した文書。

 ※波羅門=バラモンは一般に、インド人の4段階の身分階級制度で頂点に立つ階級のこと。指導者層でほとんどが僧侶。「波羅門教」と言えば古代インドの宗教で、波羅門とだけ言うとその信者とも考えられるが、菩提僊那は仏教徒だから、ここでは上流階級出身者と解するのが妥当だろう。

   

一、大仏供養の導師を招いたこと

 ある文献の記述では、(聖武)天皇は行基菩薩が《大仏開眼供養》の導師を務めるよう希望され、かねがね要請していた。《それに対して》菩薩は固く辞退して

 「私は、その任ではありません。近く外国から大変立派な師が来られます。その方に務めて頂くようにされたらよろしいでしょう」。

 供養の日が近づいた頃、《菩薩は》官に申請して治部省の玄蕃・雅楽寮の楽員を動員し、百人の僧を率いて、一緒に船に乗り難波津へ行った。しかし誰も来るものはいなかった。行基菩薩は準備していた閼伽具一式を会場に浮かべた。するとその閼伽具は、西のほうへ去って行った。しばらくすると、僧が小船に乗ってやって来た。名を波羅門僧といった。行基菩薩が浮かべた閼伽具は、乱れもせずに船の艫(とも)先に浮かんで帰ってきた。この僧を大法会の講師にした。為憲が編著した『三宝絵』では、波羅門僧は(行基)菩薩の依頼で、南天竺から東大寺の供養《大会》のためにやって来たという。船から下りて浜辺に上がり、菩薩と手を取り合って悦んだ行記菩薩がまず歌を詠んだ。

「霊山の 釈迦の御前に 契りてし 真如朽ちせず 会い見つる鴨」(霊山にて釈尊の御前で誓ったことが実現して、このようにお会いすることができました)。(波羅門)

僧正は返し歌をした。

 「迦毘羅衛に 共に契りし甲斐ありて 文殊の御容(みかお)を 会い見つるかな」(迦毘羅衛=天竺の都で釈尊の故郷=でお互いに誓い合ったことが無駄にならず、文殊菩薩のお顔を仰ぐことができました)。

これで、人々は行基菩薩が文殊菩薩の化身である事を知ったのだ。野中廉居士が著した『日本名僧伝菩薩霊異記』などの記述も、これと同じである。

  行基菩薩伝では次のようにいう。天平五年(733)に、夏季に行う修行をした際の七月二日に、船に乗り善源寺に下って行った。寺の内を二千余りの蓮華で飾り、その他の蓮華を川の水に浮かべ、道に出て《誰かを》待った。まもなく三人の僧が船でやって来た。一人は波羅門で、一人は林邑の僧であり、一人は大唐の僧だった。時に波羅門の僧は大菩薩に頭を下げて言った。

南謨阿梨耶 曼蘇悉里 菩地薩埵波耶 摩訶薩埵波耶」。

大菩薩は答礼して言われるには

 「南謨阿梨耶 波魯基地帝 世波羅耶 菩地薩埵婆耶 摩訶薩埵波耶」。

波羅門僧正が和歌を詠まれて

 「迦毘羅衛に聞きて吾が来()し日の本の文殊の御容今日見つるかな」。

《行基》大菩薩は返歌して

 「霊山の 釈迦の御前に 結びてし 真如朽ちずして 今日見つるかな」。

それから大量のお供えをして、主客の礼を交わした。その頃、大和国に口の利けない人がいた。通称を菅原臥という。僧たちが集まっている所へ走ってきて、和歌を詠んだ。

「伽毘羅衛に 聞きて吾が来し 日本の 文殊の御跡 今ぞ栄える(伽毘羅衛で私が聞き及んだ日本の文殊菩薩の御業績が、今こそ実を結ばれるのだ)

人々が感じ入ったことは、かつてないほどだった。それ以来《行基のことを》文殊と呼ぶようになった。

  『元興寺小塔院師資次第略記』の記述。ここに師資次第を述べるに当たって、二つの項目がある。初めに天竺の波羅門僧正と日本の行基菩薩との関係について述べ、次に道慈僧都と神叡僧都の三輪法相との因縁について述べる。まず波羅門僧正と行基菩薩の関係であるが、波羅門僧正は南天竺の聖人である。文殊菩薩である行基を訪ねて、天平十九年(747)日本の摂津国難波津にやって来た。見慣れない船五隻に異国の人がそれぞれ十余人が乗って来た。これを見た近くの住民が、いろいろ問いただしたが、彼らが話す言葉は聞いたことのないものだった。そこで郡の役人に注進し、郡司が驚いて駆けつけて質問したが、通じなかった。郡司は国に報告し、国は勅使を遣わして天文書生に質問させたところ

「南天竺の法師である」

と答えた。勅使はさらに、船主は誰なのか、何のために遠くまで海を渡って来たのかを訊ねた。答えは

 「日本に巡礼に来ただけです」

だった。勅使は彼の言ったことを官に報告した。天皇も大臣も驚いたり恐れ入ったりした。そして百人の名高い僧に呼び、法衣を着て香炉を持ち彼らを出迎えさせた。また五十人で音楽を演奏して彼らのところへ行き、先導を呼び出すと、波羅門は十人の弟子を引き連れて船から降りてきた。《出迎えの》百人の僧は左右二列になって進み、行基菩薩は列の最後に立たれた。波羅門は遠くから進んで来られる菩薩を見て、歩み寄って両手を取って、彼の国の言葉で

「私と貴方は同じ所で修行した俊英でしたが、お別れしてから長い年月がたち、大変懐かしく思い、お会いしたかったのでやって来たのです」

と言った。互いに懐かしみ喜んだ後に、和歌で話し合った。(波羅門は)

 「伽毘羅衛に 昔別れし 日本の 文殊の御顔 今日見つるかな」

菩薩の歌は

 「霊山の 釈迦の御前に 相見てし 真如朽ちせず 今日見つるかな」。

この歌は天下の人たちが詠唱するところとなり、いまでも廃れていない。《彼らは》彼らの国の産物である真鍮の香炉五個、菩提樹の《実をつないで作った》数珠十連、金剛子の数珠十連、梵字の経典百枚、仏舎利二千粒、その他いろいろな物を《菩薩に》贈呈し、菩薩はそれらを天皇に献上し、《天皇は》諸寺に分配されたが、元興寺の小塔院には多めに奉納した。波羅門の弟子や従者には衣食を与えた。

 『大安寺菩薩舞伝来記』に書かれている事によると、天平五年癸酉(733)四月三日、遣唐大使丹冶比真人広成、副使中臣名代らと留学生玄ムは唐で三年を過ごし、同八年丙子(736)八月二十三日に、日本へ帰って来た。《遣唐使の》船に乗っている者の中に南天竺の波羅門僧の菩提、大唐の僧道、丹瞻波国の僧仏哲らが乗っていた。瞻波は林邑のことで北天竺である。ただし菩提は伽毘羅衛国の人である。この僧は天竺で文殊菩薩に会うことを祈願していると、どこからともなく化人が現れて〈この菩薩は唐国の五台山にいる〉とのお告げがあった。そこで私的にその山に参詣しようとしていると、北天竺の仏哲が、ひょっこりとやって来た。この僧は、幼少から仏教の妙閑呪法を学んで、神秘的な力に抜きん出ていて、よく自然の原理を理解していた。(ある時、竜王が持っている)如意の珠を得ようとして、大海に船を浮かべ、呪術を使って竜王を攻めた。竜王は呪術の力に降参して、珠を持ち出して言うには

 「お前の印を結んだ手をほどけ。そうしたらこの珠をやろう」

竜王の言葉に従って印を解くと、にわかに大風が起こり、南天竺に吹きつけられた(その土地を印度という)。そこで波羅門を自分の師として、共に砂漠を越え、遥々と険しい道を踏み分けて大唐に向かい、五台山に着いた。真心を込め、恭しく菩薩に会えるよう祈ると、化人が夢の中で「今は耶波提=やはたい=にいる」と教えてくれた。「やはたい」とは日本のことである。〈二人は〉夢の教えを聞いて、大変がっかりして、途方に暮れて(唐の国内を)さ迷っているうちに、日本の使者が唐にやって来た。そして菩提は使者の言葉に従って、(日本に帰る)船に便乗して、日本に渡って来た。唐国の僧の道は、偏精律部の教義に詳しかった。内外の事情によく通じており、人々を導いて飽く事がなかった。これらの人たちは、誰もが広く旅して大衆を教化しようという志を持っていた。日本に到着して、山河の麗しいのを見て、大いに喜んだ。行基菩薩は遠来の客が難波津の濱に着いたのを聞き、香印四十個と碗四十個を作り、難波津の海に浮かべると、この香印は(菩提らの乗っている)船の周りを巡って、自然に船を導いて来た。この時、難波津では《浜辺を》飾り立て、《行基菩薩は》百人の僧を引き連れて出迎えた。菩提は船から下りて、衆僧の中から行基菩薩を探し出し、手をとって歌を詠んだ。

 「伽毘羅衛に 聞きて吾来し 日本の 文殊の御顔 今見つる鴨

菩薩は返歌して

 「霊山の 釈迦の御前に 結びてし 真如朽ちずして 相見つる鴨」

《二人は》いろいろと語り合ったが、側にいる人たちは、どこの言葉なのか分からなかった。《一行が》都に入る途中で、菅原寺の近くを通り過ぎた。そこに老人がいた。名を大倭国看といった。前世は波羅門の子供であった。現世では日本に生まれて来て、七十歳になっても物を言わないので、人々は「者」と呼んだ。この人が、行基菩薩が客を迎えられたと聞き、菅原寺まで出向いて、菩薩に言った。

 「遠来の客人をもてなすのに、足りないものはありませんかな」

菩薩は

 「衣食などはたりていますが、音楽がありません」

と答えた。国看は

 「私が都合しましょう」

と言った。この人は元来清貧で、衣食も乏しかった。

 「どうやって都合するのやら」

菩薩の弟子らは大層嘲った。時期が来ると、国看は十歳にもならない子供二人を連れただけで、やって来た。国看は飲食が終わると箸で机を叩いて、波羅門の舞の音楽を歌った。すると子供たちは、立ち上がって舞を舞った。菩薩と波羅門と国看は涙を流して泣き、また笑った。集まっていた僧も在家の人も忍び笑いをしたが、(なぜ三人が泣いたり笑ったりしたのか)その訳がわからず、誰もが言った。

 「尊い方のなさることは分からんよ」。

一晩過ぎて、一行を大安寺の中院に住まわせた。天皇は(波羅門の)操行を特に貴ばれ、僧正の位を授けた。

 天平六年甲戌(734)に東大寺の大仏像の鋳造を始め、天平勝宝四年(749)壬辰に開眼の法会を行った。講師は隆尊律師、読師は延福律師で菩提僧正を開眼師とした。諸大寺に命じて楽を奏させた。その時、仏哲は幼い頃に瞻波国で、菩薩舞と部侶・抜頭の舞を習得していたので、東大寺の開眼大会で《舞を》奉納した。

また「僧正碑文」の序文では、大唐の開元二十八年(740)十月十三日、僧正と林邑の僧都仏徹(哲)と唐の僧道は、一緒に船に乗って天平八年(736)五月十八日に筑紫の大宰府に到着し、同じ年の七月八日に摂津国に着いたという。流記では、天平勝宝四年壬辰四月九日乙酉に、天皇は東大寺に行幸され、一万人の僧を集め大仏の開眼をした。その日の導師は菩提僧正だった。

『(行基)菩薩伝』では、天平五年七月二日に摂津の善源寺で、《菩提》僧正を待って会見した。また『元興寺師資次第略記』では天平十九年に、波羅門僧正が日本に来たといっている。

  

 開眼供養の儀式のリーダーである導師を勤めた菩提僊那の来日と行基との出会い、開眼供養にまつわる説話が、数種類の文献に形を変えて伝えられていてるのが、紹介される

最初は例によって「ある記録」によるもの。聖武天皇は大仏開眼法要の導師には尊崇の篤い行基(668749)を指名したが、行基は固く辞退し「近く外国から立派な僧が来るから、その人にするように」という予言をした。そして、供養の日が近づいたら、官に楽隊を出してもらい、難波の海岸に迎えに行って、神秘的な方法で波羅門僧(菩提僊那)を誘導したという。しかし、この説話は疑問が多い。法要が近づいたと言うのは、どのような大事業にせよ常識的には早くても1年前ぐらいだろう。例えば2016年に行なわれるオリンピックが“近づいた”と言うのは、2015年ぐらいからが妥当であろう。大仏の場合、国内で金が産出され鍍金工事も進捗し、完成の日取りの目鼻もが付ついたころ、すなわち天平勝宝3年(751)ぐらいと考えるのが精々だ。しかし、行基は749(天平21)に死んでいる。法要が“近づいた”頃に迎えに行けるはずは無い。そして『続日本紀』では、菩提僊那らは736年(天平8年)には遣唐使に伴われて、既に渡来している。従って、平安時代の人である源為憲が編著した仏教説話集『三宝絵』以下の、行基と菩提僊那との歌問答などの超現実的な話は、行基を「文殊菩薩」の化身に祭り上げるために、かなり後世になって作られたと思われる“お伽話”だ。菩提僊那と行基は前世では、釈迦の弟子として「来世(前世の来世だから現世)で再会して仏法のために尽くそうという誓いが虚言にならず、いま再会を果たした」と、歌で感激を述べ合った。「南謨阿梨耶……」などの一連の漢文で書かれた詞は一種の呪文で、サンスクリットの音を重視して、無理な翻訳はせずに唱える。例えば「南無」はサンスクリットのnamoであり、意味は「帰命=心から信じる」だ。「ナムカラタンノトラヤーヤー」(仏法僧の三宝に帰依し奉る)などという、密教儀式で唱えられる「真言」の類である。ここでも、お互いに仏を讃える言葉を述べ合って、再会を祝福している。『東大寺要録』にも引用されている『元興寺小塔院師資次第略記』では、菩提僊那は“勝手に”日本に来て、難波津(現在の大阪市中央区付近)の住民を驚かせた。しかし、天皇の出迎えの一行の中に隠れるようにしていた行基を見つけ、歌の交換をしている。

さらに、これも『東大寺要録』に見える『大安寺菩薩伝来記』では、来日までのいきさつを語っている。菩提僊那は文殊を菩薩に会うため、中国の五台山に行き、そこで耶波提(やまたい)にいると夢のお告げがあり、遣唐使と徒共に来日したことになっている。「やまたい」は『魏志倭人伝』でいう「邪馬台」の変化だろう。そして、行基が超能力で菩提僊那一行が難波津に着くのを誘導し、歌の交換をしたとしている。そこまで他の文献と大同小異だが、後日談がある。菩提僊那ら一行が平城宮に入る道中、菅原寺で「倭国看」と言う波羅門の生まれ変わりの老人が接待を申し入れ、子供二人を使って歌舞を演じたという。行基と波羅門と国看は泣き,他のものにはその理由がわからなかったが、三人は共に前世ではインドで親しい間柄であり、再会に感極まったことを暗示している。

  ※治部省=律令制の行政機関のひとつ。儀礼や外交などを扱った。玄蕃・雅楽寮はその下部機関で、玄蕃寮は僧尼の人事や外交、雅楽寮は宮廷音楽を担当した。

  ※導師=原文では「講師」(仏典の教えを解説、伝授する。開眼供養では華厳経が講ぜられた)になっているが、菩提僊那。が勤めたのは導師である。

 ※閼伽具=仏前に供える花や水などの容器。

 ※菅原寺=奈良市菅原町に現存する。正式な寺号は喜光寺。重要文化財の吹き放しの列柱の金堂がある。難波津から生駒山を越えて平城京に達する、最短ルート上に位置する

  ※善源寺=げんざい、大阪市都島区に町名として残っている。当時はこの辺までが海だった。

  ※三宝絵=正しくは『三宝絵詞』。平安時代の中期に、源為憲(「?〜1011」が、出家した冷泉天皇の皇女・尊子内親王のために作った仏教関係の説話集。

  ※師資次第=師弟とその周辺の人物の関係。この場合文書

  ※天文書生=天体を観測して吉凶を占う官職。長官は天文博士。

  ※金剛子=硬い石で、ルビー、サファイアの類。

  ※北天竺=膽波も林邑裳ベトナムのことで、北天竺というとネパールになる。平安時代には混同されていた。、

  ※化人=神仏などが、人間の姿をした状態。

   ※五台山=中国山西省にある標高3058bの山で、仏教の霊場。

   ※香印=香炉のことか。

  ※鴨=歌を作るのに、「…なりにけけるかも」のように、句の末尾につける語の「かも」を万葉風に記したもの。。「かな」と同じ。

  ※=言葉を話せないもの。唖者に同じ。


一、大仏の頭と多聞天の頭が首から切れて落ちたこと。

『帝王系図』によると、文徳天皇の御世の斉衡二年(855)乙亥五月二十三日、大仏の頭部が首から切れて地に堕ちた。

  ある記録では、同じ年の六月甲申に、参議左大弁兼左近衛中将従四位上藤原朝臣氏宗を東大寺に派遣して、大仏の頭が落ちた状況の実地検分をさせた。

  七月戊申、参議宮内卿従四位上源朝臣多と安芸守従四位上清原真人瀧雄らに、大仏の頭を《修復し》固定し奉る旨を、佐保山陵に報告させた。報告の文がある。九月壬子には、少納言従五位利見王を八幡大菩薩宮に差し向け、大仏の頭が毀損したので(元のように)固定する事を申し上げさせた。奏上の文がある。

  『真如親王伝』のいうところでは「親王は思慮深いご性格であり、工匠たちはみな腕利きだった。そこで特別に勅命が下り、大仏の頭を継ぎ合わせる仕事を言いつけられた。親王が検査した日に工事は完了し、首は繋がった」とか。

  北方天の頭が落ちたことについては、古老の言い伝えでは、むかし北方天の頭が落ちて破損した。その時、日豊という名の仏師がいて、彼に言いつけて木で修復した。

 だいたい、ここにある()天のうち、私が見るところでは、南と西の天《王》の出来がもっとも優れている。

   

  斉衡2年(8555月に、大仏の首が折れて頭部が地上に落ちた。以前から背などに損傷が生じていたが、4月に(最低)2度あった地震でついに頭部を支えきれなかったのだろう。宮廷は、東大寺の願主である聖武天皇の佐保山陵と、宇佐八幡宮に勅使を遣わし、早速修復する旨を報告させた。その奏文には「(建立してから)時代が経たので……」と頭部転落の理由を述べているが、完成(開眼)以来103年で、この期間は青銅像が破損するにはちょっと短いような気もするが、奈良時代の鋳造法に問題があったようだ。

      真如親王(平城天皇の皇子・高岳親王)は、この時「東大寺大仏司検校」と言う役に任じられて、修復工事の監督に当たったが、実務を担当したのは忌部(斎部)文山=いみべのふみやま=と言う技術者で、首のつなぎあわせの難工事を、轆轤を使って首を持ち上げ成功させたため、無位から一大飛躍して従五位下に任じられた。轆轤というのは、滑車を使った起重機のような道具だろう。

 時代  時代はわからないが、大仏殿内の四天王の北方天(多聞天)の首が落ちたこともあるようだ。この像が、先に大仏殿の項で述べられている像だとすると、塑像だから首が落ちたら粉々になりそうなものだが、どのように修理したものか。或いは「アンパンマン」のように、新しい顔に付け替えたか?

  ※帝王系図=文字通り、天皇と皇族の系譜を記した記録本だろうが、親通の記述ではどんなものかわからない。


一、金鷲行者の教えで天皇が東大寺を建立したこと

  言い伝えでは、以下のような話がある。金鷲行者は、根本杉を塒(ねぐら)にしていた。(この杉は)今は大仏殿の東の山中にある。根方は朽ち果てて洞穴のようになっていて、行者はその中に住んでいた。ここは金鷲山と呼ばれていて、行者も金鷲行者と名乗った。剃髪した子供のような格好で、執金剛神を持仏にして、絶えず礼拝しては〈今輪聖王天長地久=天子の寿命の長くあれ〉と唱えていた。その声は遠く離れた天皇のお耳に届いた。そればかりでなく、この仏は光を放って宮殿を光り輝かせた。そこで天皇は、声と光の出所を探して、杉の木の所までお出でになった。《洞から》出てきた行者は天皇のお目にかかって申し上げた。

  「前世では、陛下は砂漠の船頭であらせられ、私は西域の旅人でした。私が仏の教えを求めて西域を通ったとき、あなたは砂漠を越えるのを助けてくださいました。その時、私は誓いを立てて“あなたは、この功徳によって、来世は国王になられるでしょう。私も同じ国に生まれて、お互いに法師とその支援者になり、仏法を盛んにしましょう”と申し上げました。その誓いは反故にならず、今このとおりです」

天皇はこの言葉をお聞きになって、即座に仏教を深く信じ行を実践する者ととしての誓いを立てられ、どのような人でもかまわずに、広く浄財を喜捨する人を募り、東大寺を造営させられた。金鷲行者とは良弁僧正である。以前に行者が根方に住んでいたことから、この杉を根本杉というのだ。

  別の言い伝えがある。金鷲行者は近江国粟津の人である。母親は不思議な夢を見た後に身ごもって、出産の時にもまた神仏のお告げの夢を見て、安らかに男の子を産み落とした。可愛がって育てて、まだ何ヶ月にもならない時、子供を抱いて裏庭に出た。おむつを当てているような年頃とあって、木下に寝かせておいたところ、鷲がやって来て子供をさらって雲の方へと飛び去った。母親は雲を目指して追いかけたが、鷲は目の届かない彼方に消えてしまった。母親は住むところを離れて、子を捜し求めているうちに、長い歳月がたった。時には道端で乞食をし、或いは関東に行き或いは九州に行ったりして、探索の旅は三十余年もが過ぎた。子供が生まれた時には、母親は十八歳だったが、すでに五十歳を超えた。九州から淀の津に戻って来ると、ある人が話すには

 「東大寺の別当の良弁僧正は、赤ん坊の時に鷲が落として行った子だ。仏教界の首領になられる方だから、鳥や獣も害を加えなかったのだ」。

母  母親は、船の下り際にこの話を聞いて、それは自分の子供のことだろうと、直感した。早速淀から真直ぐに奈良へと行き、僧正の居所にたどり着いた。住房は規模が大きく堂々としていて、母が来たということは僧正の元まで届きにくかったが、機会を捕らえて僧正に面会すると、親子の情愛ゆえに、僧正も母であることを覚り、礼拝して詳しい事情を聞いた。僧正はこの事を天皇に申し上げ、天皇は感激されて母親に家を賜り、住むようにされた。現在(宮殿)と呼んでいるのは、これである。


   まず出てくる“言い伝え”は『日本国現報善悪霊異記』中巻第二十一の説話と、ほぼ同じである。『霊異記』では「金鷲」は「金就」になっているが、読みは共に「こんしゅう」だ。それが『東大寺要録』では「金鐘寺」になっている。いずれも東大寺の前身で、金鷲行者は東大寺創建と絡めて、良弁僧正同一人説も生まれた。

     別の言い伝えは、文楽や歌舞伎の演目の種本になり、『大和名所図会』にも引用されている、良弁僧正は赤子のころ鷲にさらわれ、東大寺の別当になってから母と再会する物語だ。良弁の出生地は近江説と相模説がある。鷲にさらわれた後は、老弁杉に引っ掛けられているところを義淵僧正に救われ、その膝下で修行したということになっている。

       良弁と良弁杉・金鷲山寺・金鐘寺・執金剛神と絡んだ東大寺の説話や記録は多い。しかし、金鐘寺と東大寺の関係や、執金剛神の出自など、解明されていない歴史の“密室”は多い。

 ※    根本杉=東大寺二月堂の舞台の下の斜面に立つ杉。いろいろな伝説が絡まっているが、もちろん良弁時代のものではなく現在の木は樹齢40年ほどのもの。

 ※砂漠の船頭=砂漠はタクマラカン砂漠かゴビ砂漠を、船頭というのは砂漠には『西遊記』の「通天河」のような大河があるとイメージしたものだろう。旅人が河を渡るには船が必要だが、旅人が少ないのだから渡し舟などなく、たまたま舟を操っていた者がいて、無事に渡河できたという物語が作られていたと考えられる。船頭と言うのは単に舟を操る人の意味と解すべきだ。

  ※砂漠旅人=「西遊記」の玄奘をイメージさせる天竺への求法の僧。

 ※淀の津=淀川を難波から朔行して宇治川に入り着く港で、現在の地名で言えば京都市伏見区葭島金井戸町付近.

  ※別当=大寺を統括する長官の僧。

金鐘寺=『東大寺要録・本願章第一』には「公家(皇室・政権)良弁僧正の為に羂索院を創立す。古くに金鐘寺と号するは是なり」とある。そうなると、現在の法華堂は金鐘寺と言っていたのかと思われる。

   

大安寺

金堂  一棟

 五間四面で瓦葺き。周囲に歩廊がある。


本尊丈六の釈迦坐像。 足を下にして左足を上に置き、迎接の印を結んでいる。光背には化仏が十二体、飛天が二体があり、須弥炎には多宝塔が取り付けられていて、その塔の回りに雲の形がある。この像を人々は、解文恵と稽主勲が造ったのだと言っている。顔立ちは厳かで美しく、霊山の釈迦と少しも違わない。天人の影と声とが、常に奉仕していると言われている。

   

  大安寺は、藤原京では「大官大寺」と呼ばれ、聖徳太子の遺志により建てられた日本最古の官営寺院である「百済大寺」が起源であるといわれる。東大寺大仏の開眼同士を務めた波羅門僧正は日本に渡来して、この寺に住した。そんな大寺も江戸時代には全く荒廃し、堂舎は見る影もなく、わずかに残った仏像は小屋に積み重ねられているという有様だった。当然、この仏像も、現在は見ることができない。しかし、格式を誇る大寺だけあって、金堂の本尊は壮麗なものだったようだ。親通はまず光背に興味をひかれた感がある。相当に装飾の多かった光背のようだ。本尊は解文恵と稽主勲の作だというが、この二人は8世紀中期に活躍したといわれる伝説的存在の仏師で、明日香・岡寺の本尊である塑像・如意輪漢音の体内仏と考えられている銅製如意輪観音像(重要文化財)はじめ両人の作という口伝のある仏像は、記録だけ残っているものも含めてかなりある。ただし「解文恵」は「稽文会」の誤りか?「霊山の釈迦」という霊山は、釈迦が「法華経」を説いた霊鷲山を指し、浄土の意味もある。天人は姿を現さず奉仕している――ということは、本尊の回りにいるということになってはいるのだが、造形として表現されてはいないということだ。

迎接の印=儀軌によって決められた、仏像の手のポーズの一つ。右手の肘を前方に掲げ、親指と中指で輪を作る。出迎えて応接するということを表し、死者を浄土に迎える時などに使われる。


等身大の金銅の阿弥陀仏  須弥座に坐している。脇侍二体は観音(菩薩)と勢至(菩薩)で、木造である。この像は本尊の左側に置かれている。伝教大師が自分のための像にしていたという。光背の左右に宝樹の形をしたものが、取り付けられているが、木を彫ったものだ。一般の人々は、この像を薬師如来だと言うが、これはとんでもない間違いだ。像の光背の裏には金銅の銘()があり、その文ははっきりと阿弥陀仏と観音・勢至だとしている。

以下、後人の書き入れ=この記事は大間違いだ。《この三尊の》中尊は、元はと言えば金銅の像阿弥陀像だったが、《ある時盗賊に盗まれてしまった。その光背と観音と勢至の脇侍二体は《盗まれずに》残った。その後、《寺内の》伝教房西室の北から第二房が壊れた際に、伝教大師の本尊だった金銅の薬師如来像を持ち出して、阿弥陀像の後に据えた。元あった阿弥陀像の光背の他に、薬師像の光背も《現存して》あり、この《像が薬師であるという》ことは明白だ。だから、(この像を)阿弥陀だというのは、誤りである


金堂にあった阿弥陀仏は伝教大師(最澄=767822)の念持仏だったという。大安寺には最澄と交流のあった人との関係が深く、そうした縁から客仏となったものか。しかし、本尊が金銅なのに脇侍が木造というのは異様だ。そして、本尊の光背の左右に取り付けられた宝樹も木製だという。本尊が銅製なら光背も当然銅製なのが当たり前だ。文中にも「像の光()の裏に金銅の銘あり」と記されている。これは、元来は金銅製だったのが欠損し、補修は安物で間に合わせたということだろう。さらにはこの像を薬師如来だと思っている人が多かったらしく、銘文から阿弥陀如来だと論証している。

ところが、「誤りだと言うのは誤りだ」という説が、飛び出してくる。後世になって原本か古写本を筆写した者が、自分の考えを書き込んだのだろう。自分の作った写本をまた後世の誰かが利用すると予想して“親切心”からか、自分の知識を見せびらかしたい気持ちからか、それらが半々なのか――ともかく異論が呈される。即ちこの本尊、元はといえば伝教大師が住んでいた房(室)のもので薬師如来だとしている。それが本堂の阿弥陀像が盗まれてしまたので、後釜に据えられたというのだ。仏像は盗まれても光背は盗まれなかったから、阿弥陀の銘を残したまま薬師の光背になった。従って仏像は阿弥陀ではないと言うのが筆者の論。確かに、薬師は座る場所が違っても薬師に変わりは無い。伝教大師の本尊であると言う口伝は像についたままで、阿弥陀の後釜に据えられたから“伝教大師の本尊の屋阿弥陀像”が出来上がってしまったもののようだ。薬師を阿弥陀の代用にするというのは、かなり乱暴な話だ。恐らくは新調する経済的余裕が無かったのだろう。寺院の中核である金堂の像が盗まれる醜態は、警備が手薄になっていたと推測され、寺はこの頃には早くも衰退し始めていたのだろう。親通がこの書の序文で「仏法の滅退悋()しむべし痛むべし」と嘆いているのは、痛切な実感だったであろう。

宝樹=極楽にあるといわれる想像上の樹。根は金で葉は珊瑚、実は真珠だという。或いは不可思議な力を持つ“宝石”を意味する「宝珠」の誤りか。宝珠は仏塔の相輪や八角形の建物の屋根の頂などに取り付けられる。


等身大の木造千手観音  この像は弘法大師の御仏だという。中尊の右側に安置してある。また等身の木造の吉祥天像がある。この像は須弥壇の上の方にある。顔つきは厳かで美しく、ご利益に優れている。誌和尚の木造の肖像彫刻がある。高さは三尺(90a)この像は須弥壇の東南の隅に置かれている。両手で顔の皮を裂いて広げていて、その中から仏の容貌が現れている。不思議な様子である。そして、つくづく見ていると霊気を感じる。


  伝教大師の「御仏」があれば、弘法大師(空海=744835)の御仏もある。空海は829(天長6)年に、この寺の別当に任じられている。菅家本の『諸寺縁起集』(原本は東京国立博物館蔵)を見ると、三面僧房(原本では僧坊)の西室の北端の房は「弘法大師坊」に、二番目が「伝教大師坊」になっている。この配置図はある時代の実態を伝えるものではなく、かつて住んだ事のある高僧を記録したもので、東室には菩提僊那、行基、勤操らの名前が見える。千手観音は空海の房にあったものか。

この像より少し離れて吉祥天の像もあった。親通はかなりの賛辞を呈している。そして宝誌和尚の木彫像。自ら顔の皮を裂いて、皮膚の内側の仏の顔を見せているという異様な像だ。宝誌については種々の伝説があるが、この像にまつわる伝説は『宇治拾遺物語』巻9第2に「宝誌和尚影ノ事」として収録されている。即ち、中国のある帝(南北朝・梁の武帝と考えられている)が宝誌を大変敬っていて、その面影を残そうと3人の画家に写させようとしたところ、宝誌は「自分の真の姿を写せ」と、爪で顔の皮を裂くと、そこには観音菩薩の顔があり、ある画家は聖観音に、別の画家には十一面観音に見えたという。この像と同じ様相のものが京都・西往寺に伝わり京都国立博物館で保管されている。親通はこの像をよく見ると「霊気を感じる」という。伝説が頭にあったこともあろうが、像はそれなりの秀作だったものか。

三面僧房=僧房は寺の僧が止宿する建物で、概して細長い平面で、いくつかの部屋に仕切られている。古くは講堂を南面だけ除いた三方で取り囲むように建てられていた場合が多い。そこで三面僧房という。


縁起の看板 一枚。長さは四尺六寸(1.38b)、幅は二尺(60a)余り。この板は本尊の前の、壇の下にある。この寺の縁起が書いてある。

 

面積8200平方センチの縦長の板に書かれた寺の縁起は、天平19年(747)に作られた『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』(重要文化財=国立歴史民俗博物館蔵)と、ほとんど変わりないものだったに違いないだろう。字の大きさにもよるが、聖徳太子が建てた「熊凝精舎」が太子の遺命で「百済大寺」になり、さらに「高市大寺」「大官大寺」を経て「大安寺」になったという口伝による由来が、詳しく書かれていたであろう。


講堂

五間四面で瓦葺き。本尊は丈六の阿弥陀仏の坐像で、定印を結んでいる。脇侍が二体。これらの像は、近頃になって造られたものだ。

四天王像。高さは約四尺(1.2b)。この像はずっと昔にできたものだ。不思議な様子をしている


 大安寺は1017(寛仁1)年に火災で伽藍の大部分を焼失している(Webサイトの同寺ホームページの年表による)。平城京に移って以来の講堂もこの時焼失したのだとしたら、復興は約70年後だから、親通が本尊・脇侍を“近頃の出来だ”と言うのは当然と言える。しかし、四天王像だけは古いものだとしている。小型だから、木造ならば避難させるのも比較的容易だっただろう。しかし、どこからか移入したものかも知れず、その辺の記述が無いのは残念だ。

定印=宗教的な瞑想状態に入っていることを示す手のポーズ。両手の指を腹の前でそろえるような格好。


東塔 一基

七重で瓦葺。勝鬘夫人が出家した状況が現されている。一人の僧が夫人の後ろに立って、左手で婦人の頭を押し(付け)、右手には鋭利な刃物を持って夫人の頭の頂に置いているという、奇妙な様子だ。この塔は金堂の東南方にある。その内部の柱に描かれた獅子の絵は変わっている。四方の扉の左右《の柱間》には、それぞれ連子がある。その下の小壁の内側には、さまざまな獅子の形が描かれている。奇妙なものだ。心柱は四角だ。その《柱の》四面に描かれた曼荼羅の図は、《小壁の獅子の絵と》同様に、奇妙なものだ。言い伝えでは、巨勢金岡が描いたのだそうだ。


     大安寺には、古くは東西二塔があった。『大和志料』(奈良県教育会編=1944年、天理時報社刊)所載の古地図(時代・出自不明)では、寺域南端の塀のすぐ内側にあった。ただし、七重ではなくて五重に描かれている。21世紀になっても塔跡の調査は進み、東西両塔とも建物の規模や構造を推定させる礎石などが見つかっている。

    東西両塔があったのは確実だが、親通は東塔のことしか書いていない。これは1017年の火災で両塔とも焼失して、再建は東塔にしか及んでいなかったか東塔は運良く消失を免れたものか、火災の詳しい記録でも見なければわからない。

     勝鬘夫人(しょうまんぶにん=シリーマーラー)が出家する場面が表出されていたという、記述がされている。原文では「体を安んず」とあるから、立体造形が置かれていたのだろう。勝鬘夫人はインドの舎衛(コーサラ)国の王女で阿踰闍(アユジャ)国の王妃。熱心な仏教信者でこの人を語り手とする形式で説かれたのが大乗仏教の重要仏典とされる「勝鬘経」である。その夫人が頭を押さえつけられ、刃物を当てられているというのだから、物騒だ。出家して剃髪するなら頭に刃物を当てもするだろうが、それならば剃られる者は正座か結跏趺坐して、合掌していそうなもので。おさえつけて刃物を当てるというのはリンチか殺人のようで「奇妙な様子」というより“意味不明” の様子と言えよう。

塔の内部の壁画があったのだが、柱絵と小壁に描かれたものにしか記述は及んでいない。或いは大画面とすべき壁面は無かったのかも知れない。日本の仏塔の多くは、一層は方三間(四面とも柱と柱の間隔が三つ)だが、一間は扉であり他の二間は連子窓で、大壁画を描くスペースはない。だから、こじんまりとしたものに、ならざるを得なかっただろう。

小壁=建物の屋根の下の「貫」(ぬき)の間や、下部の腰貫と基礎の間などの、面積が小さい壁。


八幡大菩薩の社

西と南に門がある。この神殿は東塔の北にある。かつて、行教和尚が《八幡》大菩薩を大安寺にお呼びしてお祀りしたのは石清水に遷宮された以後の事だ。また『年代記』では、斉衡二年(855)に八幡大菩薩は、宇佐から大安寺に移って鎮座されたという。『行教和尚記』では、貞観元年(859)八月二十三日に、八幡大菩薩は山崎宮―離宮である―に移られ、そこから男山に移られたという。


  貞観元年(859)に行教が清和天皇護持のため、宇佐八幡宮に参篭した際に神託を受け、京都・南郊の男山(京都府八幡市)に八幡大菩薩を分祀して、石清水八幡宮を建立した。それをさらに大安寺に分霊したのが、この八幡宮だった。親通は、何かの文献か口伝で、行教が八幡大菩薩をいきなり宇佐から大安寺に勧請したというな説があるのを知っていて、「かつて……」以下、鎮座までの経緯を説いているのだろう。

行教和尚=平安時代初期の僧。生没年不明。大安寺で仏教を研究史、藤原氏の推挙で皇室に近づいた。貞観5年には「伝灯大法師」の位を授けられている。

  ※石清水=京都府八幡市八幡高坊の男山に鎮座する、日本3大八幡宮の一つに数えられる神社。一般に《男山》徒呼ばれて親しまれている。

年代記=どんなものか不明。

  ※山      ※山崎宮=八幡大菩薩は男山に遷座する前に、一時京都府乙訓郡大山崎町にあった「山崎離宮」に遷られ、改めて男山に祭祀られた。現在も大山崎町には「離宮八幡宮」がある。山崎と男山は淀川を挟んで向かい合っている。


西塔跡

礎石が今でも残っている


 西塔は、何時どのようにして“消滅”したかは別にして、消滅後は顧みられなかったようだ。復活の気配も無かったようで、礎石が「今でも」残っているというのは、消滅がかなり過去のことであることを示しているようだ。常識的には1017年の火災の時だろうが、1090年ごろには金堂・回廊・中門・塔などが再建されている(Webサイト年表)。そして保延6年の親通再訪までは50年経っている。50年間もたって礎石が残るのみと言うのは、再建する意欲が無かったことを物語るのではないか。


東室の跡

十間。この室()は、金堂の東側の野原の中に、南北に礎石が連なっている。古老が言うには、昔は二間が一つの坊だった。北端の二間は行表の坊で、次の二間は勤操、次の二間は行基菩薩、次の二間は行教和尚、南端の二間は波羅門僧正の、それぞれ房である。官から額が下賜されていて、南の妻戸に打ち付けられていて、その文面は「菩提僧正院」だったという。

  行教和尚の坊の近くに、石造りの井戸がある。これを「四院の石清水」という。その井戸は現在もある。言い伝えでは八幡の石清水の源はこれである。そもそも行教和尚は、大納言紀古佐美の一門だとか。

    

    東室(三面僧房の東部分)も復興されていなかった。行表・勤操・行基・行教・菩提(僊那)という錚々たる高僧たちの房なのだから、早速復旧されても当然だろうと思うのは、部外者の勝手な判断か。「四院の石清水」は『大和志料』所載の古図では、東室南端の東のやや離れた位置に描かれている。男山の石清水八幡宮では、山の中腹に“延命長寿”の水が湧き出てる「石清水井」あるが「四院の石清水」はその源泉だという伝説があった。

   

西室

十間。北端の二間は弘法大師の房で、次の二間は伝教大師、次の二間は修禅大師である義真和尚、次の二間は●是大師である円登和尚、南端の二間は道律師のそれぞれ房だった。ある書物は、道律師は大唐の大福光寺の信算和尚の弟子だといっている。


   親通の見た西室は、焼けなかったか復興されたものだろうが、焼け残ったのだとすると塔は西が焼け、僧房は東が焼けるという、現場に居合わせでもしなければ事情が分からないような火事だったわけだ。或いは、東西両僧房とも焼けたのだが、弘法・伝教両大師という、比較的“身近”に感じられたであろう高僧の住房だったのだから、こっちを優先して復興させたか?また北室についてはなんの記述も無いが、跡形も無かったのだろうか?『私記』とて、見聞の全て記録したものでは無いだろうから、或いは気が向かなかったか、見落としたものか、そうしたものの記述が無いのに云々するのは野暮だが、無いだけに講堂と東塔、三面僧房のそれぞれの“たどった道”は、ミステリー的興味を呼ぶ。道璿(どうせん)律師(70260)は唐の僧。菩提僊那らと共に来日し、大安寺では「禅院」を開き、北宗禅を講じた。


四方の門の額の文

東門の額には「大官大寺」、西門には「百済寺」《という文が書かれている》。南門は「大安寺」、北門は「南大寺」である。

  古老が言うには、この寺の四方の築地垣は、それぞれ真ん中に大門があり、その門をこのように呼ぶのだ。しかし、この話には大変疑問がある。東・西・南の三つの門は、日記に照らし合わせて、ほぼよいと言えるだろう。しかし北門の南大寺というのは、なぜか分からない。そこで調べてみたところ、ある書物に「東大寺があり、西大寺があって、この寺はその二つの大寺の南にあるから南大寺というのだ」とある。この額は今は見られないけれども昔の呼び名を伝えるものとして、記録しておく。

  

   よく分からない記述である。古老の話として、寺の四方は塀で囲まれ、それぞれ中央部に大門があり、東方の門には「大安寺」、西門には「百済寺」、南門には「大安寺」、そして北門には「南大寺」の額が、それぞれ掲げられているというのだ。しかし、話を紹介はしたものの、疑問があるという。その理由は「南大寺」という寺号だ。

寺は原則として南向きに建てられるから、南は正面に当たる。従って寺の正式名称である「大安寺」の額が掲げられる。東西の門は旧称の「百済寺」「大官大寺」を記した額で、寺の由緒を示すものとして納得が行く。しかし「南大寺」というのはどういうことなのか、という次第。そこで何かと調べた結果、この寺は東大寺とそのほぼ真西にある「西大寺」の南にあるから「南大寺」と呼ばれるようになっただとする文献を見つけた。恐らく寛仁7年にできた『諸寺縁起集』(醍醐寺本)だろう。それにしても南()門と東西の門の額の寺号は“日記”と調べ合わせてみてして妥当だというのはどういうことか。“日記”とは34年前に著した『七大寺日記』のことだろうか。それならば、自著と照合するまでもないだろう。或いは、『日記』を著したときにも了解していたということか。『七大寺日記』には「古老伝えて云う。大安寺は四方門に各額有り。百済寺(の額は)は西門大官()寺は東門大安寺は南門南大寺は北門。実説を聞く可し。云々」とある。こうしてみると、嘉承年の巡礼の際に、これら門の話は聞いていてたが「実説を聞くべし」というからには、半信半疑だったのだのが、その後の調べで「南大寺とは何か」という難題も了解できたものと推測できる。

しかし、親通は再度の大安寺訪問で、これらの門――少なくとも北門は見ていなかっただろう。見ていたのなら「古老、伝えて云う」などということになるはずがない。見てはいないが、衰退してゆく寺を惜しむ意味から、名前を記録に留めたものだろう。

 

以上が大安寺についての、あらましである。そもそもこの寺は、上宮太子(聖徳太子)の御発心で創建されたものである。太子は攝津国の熊凝村にこの寺を構えられたけれども、その工事が完成しないうちに、御年四十九歳の春二月に斑鳩宮で御亡くなりになった。その後、推古天皇が事業を受け継がれ舒明天皇の御世に百済川の岸辺移築され、「熊凝」の名を改めて「百済」にされた。その後、落雷のため焼失した。そこで皇極天皇が再度お建てになり、天智天皇の御世に丈六の釈迦像を造った。その開眼供養の日には、紫の雲が空いっぱいにかかり、美しい音楽が空から聞こえてきた。天武天皇の時代には、また高市郡に移転され、名を大官大寺として、新たに塔を付け加えられた。《天皇は》以前からあるような丈六の釈迦像を造ろうと、名工が得られるようお祈りさせた夜に、夢の中に僧が現れて申し上げた。

「さきごろ造ったの釈迦像の作者はは化人です。再びやって来ることはありません。また、名工がいたとしても、道具を使うのに過ちもあるでしょうし、画工を使っても筆の誤りが無いとは言えません。そこで、大きな鏡を在来の仏の前に懸けて、映った姿を供養しなさい。彫刻するのでもなく、描くのでもありません。それで三つの姿が現れるでしょう。鏡に映った影は応身であり、浮かんでくる形は報身であり、何もないのは法身です。これ以上の利益のあるものはありません。」。

夢から覚めて《天皇は仏前に》、大きな鏡を懸けさせ、堂の中に五百人の僧を集め、法要を開いて盛大に供養した。

 その後、元明天皇の時代になって、和銅三年(710)に、またまた《都が平城京に移ったのにつれて》移転した。聖武天皇が《古京に》引き続いて建立されようとした際に、大宝元年(701)に仏教研究のため唐に渡り養老二年(718)に帰国した、高僧の道慈が奏上した。

「私は、唐に渡るに当たって心の中で、もし無事に帰国できたら、大きな寺を建立しますと、誓いを立てました。その志を遂げるために、唐で西明寺の見取り図を持って帰りました」。

天皇は大変喜ばれ、

 「願ったり叶ったりだ」

と仰せられた。そして天平元年(729)に、道慈に命じて寺を造らせられて、《道慈には》律師の位を賜った。

 伝え聞くところでは、中天竺・舎衛国の祇園精舎は、兜卒天の摩尼殿に倣って造られ、大唐の西明寺は祇園精舎を手本にして造られている。わが国の大安寺は西明寺を写して造られたという。天平十四年(742)に完成し、大法会を催して供養した。

天平十七年(745)に大官大寺《の名》を改めて大安寺とした。

道慈律師が言うには「この寺は舒明天皇の御世に、すっかり焼けてしまい、同じ帝の十一年(639)乙亥に再建した。謹んで考えてみると、この寺の材木は子部明神の社の木を伐採して建てたので、この神がお怒りになって、焼かれてしまわれたのだ。その後、あちらこちらと所を変えて造立したから、多くの費用を費やした。そこで、明神のために大般若経を写経して、般若会を催して明神に捧げ、後々まで恒例の行事として、毎年四月に行うことにした。明神は喜ばれて、寺を守るようになった」。

また別の文書では、この寺が舒明天皇の御世に雷火で焼けてしまった後に、代々の帝王が再建されて、三百六十余年が経った。後一条院の寛仁時代(10171021)に、西塔・講堂・食堂・宝蔵・経蔵・鐘楼など、二十余の堂舎が、ことごとく焼失した。ただ釈迦像と大師の造られたご本尊は、やっとのことで持ち出せた。今拝見する釈迦像は、昔の像が焼けてしまった後に、造られたものだ。堂舎の数は(往時の)十分の一に過ぎない。さらに寛仁年間以来、保延四年(1138)に至るまで、四百二十余年の歳月がむなしく過ぎて、さらに多くの堂舎が朽ち果てたり、傷んだりしている。

堂塔や仏像の説明が一応終わって、寺の由来や伝説・口伝の紹介になる。

 まず、この寺の根源は聖徳太子が建立した熊凝精舎だというのだが、それは現在でも定説になっている。しかし、その設立場所が攝津国(原文では摂津州)と言うのは不可解だ。熊凝精舎は後に額安寺とも呼ばれ、所在地は奈良県郡山市額多部寺町だ。摂津国はおおさかふと兵庫県のそれぞれ一部だ。

 天武天皇が高市郡(藤原京)で作らせようとした仏像にまつわる夢物語で「応身」というのは、仏が衆生を救うため、相手に相応の姿をして現れる「三身」の一つで、まだ仏法がよく身についていない者に相応で、「法身」は真理そのものであり現実的な姿ではなく、菩薩か高僧クラスが対象。「報身」は二者の中間にある者のための姿といったところ。

 天平元年(729)の平城宮での大安寺建立に当たっては、遣唐留学僧だった道慈(?744)が唐から持ち帰った西明寺の図面によってたてられたという。西明寺のモデルはインドの祇園精舎で、そのまたモデルは兜卒天の摩尼殿だという。兜卒天は、将来仏になる菩薩の住む場所で、現在は弥勒菩薩がすんでいることになっている。摩尼殿は珠玉のような建物といったところ。そんな立派な仏殿の流れを汲むということで、壮大・華麗な堂舎が立ち並んでいたことが伺える。

 道慈は、寺の“防火対策”について進言している。舒明天皇の時というから。百済寺の建設に当たって、木部明神という現在の橿原市飯高町に「子部神社」として名を残す子部明神の神社の森の木を切って用材にしてとあって、明神が怒って寺を焼いてしまい、後に般若会を催して明神に捧げたらご機嫌を直し、一転して守護神になった――寛仁年間の堂舎のほとんどが焼けたというから、このころには明神のご利益は無効になっていたとみえる。寛仁の火事で非難させた大師のご本尊は、金堂の本尊の右側にあったという千手観音のことだろう。

大師=伝教大師のことか?


西大寺 

金堂は兜卒天宮というが、倒壊して礎石が残っているだけだ。《元来は》弥勒浄土の様子を表していた。

この寺は孝謙天皇の発願で造られた。寺中の諸堂はみな倒れてしまって実体はない。ただ礎石があるだけだ。辛うじて残っているのは食堂と四天王院ぐらいなものだ。食堂もずいぶん傷んでいる。金堂にあった弥勒浄土の《様子を表した》造形も破損して、破損を免れた仏や菩薩の像は、食堂に移して安置してある。これらの像は変わった像だ。その中で労度抜提の像がよくできている。其の毛書はなんとも表現し難い。うずくまって合掌している格好に似ていて、奇妙な形だ。

  古老の言い伝える話。(称徳)天皇は、深く兜卒天の教義を信じて、ほかの事には関心がなく、(この寺院を建立して)最初にできた堂を兜卒天宮と呼んだ。弥勒の浄土様子を写すつもりだったが、造営が終わらない前の、《神護景雲四年=770》二月の頃夢を見た。《夢の中で》兜卒天の四人の使いが降りてきて

 「この年の七月に、必ず汝を迎えに来る」

と告げた。天皇は驚いて、大臣に

「この寺のことは、全てあなたに任せるから、自分が死んだら必ず完成させなさい」

と仰せられた。天皇が亡くなられて、兜天宮に往生されたのは、夢のお告げ通りとである。


   西大寺は平城宮の西にある大寺(おおてら)だからこの名がある。称徳天皇(71870)が、父・聖武天皇が建立した東大寺に対抗するかのように立てた寺で、盛時には薬師如来と弥勒菩薩を本尊とする二つの金堂、東西両塔、四天王を祀る四王院など、110もの堂舎があったという。ところが親通が尋ねた折には、わずかに残った主な建物は食堂と四王院だけという、情けない有様だった。

       称徳天皇が信じたという兜卒天信仰は弥勒信仰であり、古代においてはかなり盛んだったようで,説話にもしばしば見られる。弥勒菩薩は釈迦が死んでから567千万年後に地上に現れ、衰退した仏教を建て直し、衆生を救うとされる修道者で、未来仏または当来仏(将来にやって来る仏)と言われる。まだ仏ではないのだが、世の中が混乱すると仏の再来を待ちきれない衆生は、勝手に菩薩から如来に格上げしてしまい「弥勒如来」像が作られたりした。そこまで行かなくても弥勒の住む兜卒天に往生し、輪廻の苦しみから救われたいという願いは強く、称徳帝もその一人だったわけだ。天皇自らが深く信じて作る “浄土”のレプリカだから、いい加減なものであったはずはないが、それも破損して、損壊を免れた像は食堂で保管されていた。それらの像は「変わった像」(原文は件等像不可思議也)と親通は見ているが、それらの中で「労度抜提」という人物の像がよくできていると褒めている。「うずくまって合掌している格好」に見えるというのだから、人物であるのは間違いないだろう。それならば固有名詞かと考えられるが、そのような名前は各種辞書・辞典類には見当たらない。「抜提」を音が似ているから「菩提」のことと考えれば、菩提薩埵(ぼだいさった)で菩薩と考えられもするが「労度」などという菩薩がいるのだろうか。また「毛書」というのも、よく分からない。一般的に毛書とは毛筆による書や画のことだが、人物鳥獣の毛や羽を細い線で描く意味もある。或いは「労度抜提」には頭髪があり、それが毛筆で描かれたいたのでもあろうか。不可思議な事ではある。なお、奈良国立文化財研究所刊の印影本では「労度抜提」の前に一字あり、郵便局のマーク〒のように見え、釈文では「干」になっており、るが『日記』のこの部分は「其中」であり、食堂に移された残存像の中にも優品があった事を示している。

     称徳帝の死にまつわる説話が紹介されているが、兜卒天から降りて来た四人の使者とは、四天王のことだろう。四天王は兜卒天にいて、弥勒菩薩を守護する役目も担っている。ここではメッセンジャーとして使われた。天皇の行状と死については弓削道鏡(?〜772)に絡んだ淫猥な説話もあり、仏教倫理からすればとても浄土に往生できそうにないが、西大寺にとっては“極楽往生”以外は問題外だったろう。 しかし、四天王が踏みつけていた邪悪のシンボルである「邪鬼」は破壊を免れ、現存像に使われている。

埵    ※孝謙天皇=孝謙天皇は一度退位したが、後に重祚して称徳天皇となった。西大寺建立を発願したのは孝謙の時で、死にまつわる説話は称徳天皇としてであるが、原文では「称徳」の名は出てこない。

弥勒浄土の造形=浄土の様子を塑像などで立体的に表現したものかと思われる。法隆寺五重塔の初層四面にの塑壁(そへき)はその例。

食堂=原文では「金堂」だが、金堂は倒壊して仏像を移転させたと言うのだから、金堂であるわけがない。食堂を書き間違えたもの。

    

堂の瓦が消えてしまった事

昔は、この寺の瓦は青い瑠璃瓦だったが、貞観時代の旱魃のとき、ことごとく流れ落ちて消えてしまったという。その後、別の瓦で葺き直したが、年月が積もって今日見られるように、壊れてしまった。


  瑠璃瓦は釉薬瓦で、原文では「青瓷」になっているが、青とは多分やや淡い緑か、多少ブルーがかった緑だっただろう。奈良・平安時代の彩色陶器に、鮮やかなブルーは見られない。藍色の使用例も少ない。現代でも交通信号の緑を青信号と言うように、平安時代も青と緑の区別は厳格でなかったと思われる。

 しかし、色はともかく瓦が“流れ落ち”て、しかも消滅したとは、一体どういうことなのだろうか。文では旱魃のように書かれているが、旱魃なら当然猛暑で、溶けて流れて蒸発してしまったとでもいうのか――と思ってしまうが、そんな酷暑なら人間が生きてはおられまい。このような話は針小棒大が当たり前だし、貞観年代(85977)から約260年たっているから、話が変形したり尾鰭がつくには十分だ。とにかく、何かの理由で瓦が損傷したのが“奇談”に仕立てられたのだろう。


四天王院の金銅の四天王

高さは七尺三寸(2.1b)。等身大の吉祥天。

この像は、平城宮に都があった時に、(宝字)称徳・孝謙天皇が、天平宝字八年(764)の九月十一日に御願を発せられ、高さ七尺(2.1b)の金銅の四天王像を造られ、同時にこの寺を建てられた。神護景雲元年(765)に其の像の鋳造を始められ、伽藍を開かれたという。(そのように)縁起に書かれている。

 古老が言い伝えるところでは、この四天王を鋳造した際に、何回も失敗したそうだ。孝謙天皇は嘆息されて

「私は世の人々を導き、仏法を盛んにしようとしてこの像を造っているのに、何回試みても成功しない。(今回は)私が炉に手を触れて、焼け爛れてしまわなければ、願いは叶えられるだろう。もし信心が足りない故に鋳造が成功しないようならば、手は焼け失せてしまうだろう」

と仰せられ、改めて願をかけられ手を沸き立った炉の中に入れられたが、御手は無事で、その時に鋳造は成功した。

 また《別の》古老の話。昔、日本中が旱魃で田んぼの真下の水路でさえも、一滴の水さえ無いことがあり、どこの田も乾ききって荒れてしまった。その時、《この寺の》僧が雨乞いのお祈りをすると、この四天王が近江国に行って水を引いて田を潤した。四天王の体には泥がついていたので、人々はそれを見て、四天王の御力に驚かされ、神話として後の世に語り継いだ。

 私が考えるところでは、天平宝字年間というのは、淳仁天皇の御世で、孝謙天皇の御世ではない。これは、或いは天平勝宝時代のことなのだろうか。そもそも、嘉承年間に巡礼した時に、すでに(堂舎などの)損壊はこのようなものだった。そして、それから三十八年経って、保延六年(1140)三月十八日に再度巡礼してみたところ、金堂はすでに崩れ落ちており影も無い。辛うじて残っているのは、食堂と四王院だけである。仏教の衰退でこのようなことになったのだ。嘆かわしく悲しむべきだ。


   称徳天皇が造った銅製四天王像は貞和13年(846)以来数度の火災にかかり、再鋳造された像も文亀2年(1502)に焼けてしまい現在「四王堂」にある像はその後作られたもので、そのうち3体は銅製だが多聞天はさらに損傷して、左足以外は木製である。しかし、四天王が踏みつけている邪悪のシンボルである「邪鬼」は重なる災害にも損壊を免れ、やや痛んでいるものの奈良時代のものが現在の像を支えている。本体はたかだか500年のものだが、いわば“添え物”の邪鬼は1200年以上も生き延びているわけだ。会津八一は、1924年に発表した歌集『南京新唱』でこの像について「まがつみ は いま の うつつ に ありこせ ど ふみし ほとけ の ゆくへ しらず も」(邪鬼は今の現に在り越せど踏みし仏の行方知らずも=邪悪な者は今も存在しているが、それを踏みつけていた(オリジナルの)四天王は消えてしまっている)と詠んでいる。

   この四天王像を作るに当たっての伝説として、孝謙(称徳)天皇の奇跡談をつたえている。古代で鋳造はは仏像に限らず困難を伴い、成功のための超現実的な伝説が生まれている。その中には女性や童子の犠牲によるものもあるが、この場合は仏の加護によるハッピーエンドの成功例で、いかにも権力誇示の“臭み”が感じられる。

    そして、何時のことか分からないが旱魃で人々が苦しんだ時に、この寺の僧の祈願で四天王が、近江国(多分琵琶湖)から水を引いて救ったと言う話も付け加えられている。当然、寺のPRのため作られた話だろう。それにしてもよく旱魃に絡んだ伝説が残る寺だ。

    親通は鋳造の伝説について、称徳天皇が願を発したといわれる天平宝字は淳仁天皇の時代だから、天平勝宝の誤りではないかと、疑問を呈している。確かに天平宝字8年(7649月は、まだ淳仁天皇の世だ。この後10月には淳仁帝は皇位を追われ淡路島に流され、太上天皇(孝謙)が重祚するのだが、太上天皇は一ヵ月後の復位を決定的事項として、造像を発願したと解釈でもしないと、辻褄が合わない。親通が不審を抱くのももっともだ。しかし、天平勝宝と考えるにしても、その裏づけとなる資料もないようだ。

南京新唱=読みは「なんきょうしんしょう」。引用した歌の漢字を交えた書き換えは、1968年中央公論社刊の『会津八一全集』に収録された『自註鹿鳴集』中の「西大寺の四王堂にて」を参照した。「まがつみ」は会津の造語。 

     ※三十八年=これも34年の誤り。先には36年とする誤りを犯し、今度は38年だとする。二度も間違え、しかも年数が違うのはどういうことだろう。


塔一基

四王院の西にある。


  まことに素っ気無い記述で、当時に何らかの塔があったことは示されても、由緒もどのような塔なのかも分からない。大体が、この寺の記事の冒頭で「残っているのは食堂と四王院」ぐらいなものだと言っている。もし寺院の最重要の建物の一つである塔が残っていたのなら、書き落とすはずはあるまい。してみると、通常に五重塔とか七重塔というようなものではなくて、五輪塔のような小規模な石塔か、それに類するものだったのか。


興福院

この寺などは、古い記録に載っているだけで、堂はひっくり返って、実体は無い。だから嘉承年間に巡礼した時、見なかった。


 現在、奈良に興福院(こんぶいん)という名の尼寺が法華寺近くの法蓮町に存在するが、親通が見た廃墟の興福院と関係はない。現存の興福院の前身は、平城京の右京四条二坊(現在の奈良市尼ケ辻中町付近)にあったとされ、江戸時代になって現在地に移った。『日記』では、唐招提寺を除く七大寺が番号を付けられ列記され、興福寺は東大寺に次いで二番目に記述があるが、五番目の西大寺の項の末尾に番号なしで「興福寺」が再び現れ「百川大臣之を建つ。西門の角に瓦葺きの堂有り。阿弥陀院と号す。如法大僧都の弟子豊安僧正の建立なり。見るべし」とある。これが「興福院」に当たると思われる。それなのに、ここでは「嘉承年間に巡礼した時に見なかった」という。何とも矛盾した記述だが、強いて辻褄を合わせるなら、嘉承の巡礼では「実体はない(と言うので)」現地に行かないが、人の話だけで記録した。「見るべし」というのは『見る価値がある』の意味ではなく「何時か見なければならない」の意味と解せば一応納得できる。しかし、大寺でもなく見てもいないのに、どういう理由があってわざわざ収録したのか。全くの気まぐれとしか思えない。だが、可能性として考えられることがないでもない。寛政4年(1792)に柴野栗山や屋代弘賢が古社寺の“宝物”調査のため薬師寺を訪れた際に、続いて唐招提寺・西大寺と歴訪しているように、親通も同一のルートを取り、唐招提寺から西大寺へ向かう途中に、ルート上にあるといってよい興福院に立ち寄り、「見るべし」と思っていた寺の見学をはたし、“ついで”に『私記』に記録したと言うことであろう。こうすると『日記』の記事の関連は、辛うじて説明がつくと思える。ただ、親通がなぜ興福院にこだわったのだろうか。称徳と百川の関係(従姉弟=百川の父・宇合と称徳の母・光明子は異母兄妹)と地理的関係から、西大寺の一子院とでも思い込んだものか。いろいろと想像を逞しくして歴史の一端を組み立ててみるのは、学問の“堅苦しさ”に無関係な歴史愛好家の特権だから、親通の記述のあやふやさや誤りも、後世の人間を楽しませてくれるともいえよう。

百川大臣=藤原百川(ふじわらももかわ:773279)。道鏡によって押され気味だった藤原氏の勢力の挽回に力があった。生前は大臣でなかったが、死後に右大臣・太政大臣を追贈された。


金堂

本尊はは金銅の丈六薬師(如来))像で、脇時二体も金銅仏だ。この堂は、百川大臣が造立したという。西大寺の南にあり、中門に額が懸けられている。中門の内部の上の方に、十二因縁の絵が描かれている。


    「寺の実体はない」と言いながら、金堂と仏像について述べている。中門があるというから、とにかく一山の体裁は整っていたのか。何ともおかしな話だが、西大寺の付近(といっても直線距離で約1.5km離れている)ではあり、34年前の「見るべし」の思いを実践、ついでに採録したものかと、牽強付会ながら思ってみる。

  ※十二因縁=人生の苦悩のもととなる12の原因を順序だてて説いたもの。


興福寺

 またの名を山階寺という。左京三条七坊にある。


   興福寺の草創は天智天皇時代で、場所は山背国宇冶郡山階(やましろのくに・うじぐん・やましな=現在の地名は京都市山科区)だった。建立当初は地名から「山階寺」と呼ばれ、その後藤原京では「厩坂寺」、平城京に移ってから「興福寺」と改名された。寺の所在地は現在も平安時代とは変わっていないから、この辺りは「左京三条七坊」という地名だったことが分かる。現在、寺域は四方を公道に囲まれ、どの方面からも楽に入れるる。しかし平安時代には当然塀で囲まれていて、寺は南面するのが定法だから南が正門だった。そこで正門側が寺の所在地表示に使われた。三条は三条通と同じで、この道は五重塔の下、猿沢の池に面し、西はJR奈良駅方面、東は春日大社に通じる。現在の寺の地番表示は登大路町48番で、登大路通は奈良県庁に面し、西は奈良市役所方面、東は東大寺へとへ伸びる道。以前はと言えば寺の裏口に当たる。「仏法が衰退すれば、裏も表もなくなったか」と親通は嘆くかも?


南大門 一棟

 五間。柱間の間隔は一丈五尺(14.5五b)、奥行きは二丈八尺(8.5b)で、真ん中の三つの柱間には扉がある。《門の内側の》左右の端の柱間には獅子があり、外側の両端の柱間には金剛力士の像が置かれている。

  東方の門は三棟あり、北の二棟は三間、南の一棟は一間である。西方の門は二棟で、それぞれ三間。北門は一棟で三間。土台に継ぎがある。永祚元年(989)八月十三日に大風で倒壊したという。北の外門一棟、一間。南中門一棟、五間。戸が三枚ある。真ん中の戸の北側に金鼓が懸けてある。行事鐘と呼ばれている。


     現在の興福寺の金堂や五重塔がある地域の面積はさして広くない。南北の限界は南が三条通北が登大路だが、その間は約250m。平安時代に三条通から境内に入るには、先ず石段を登り南大門をくぐる。“鼻の先”のところに中門があり、回廊が中金堂につながっている。その後ろには講堂があり、右手には東金堂、その南に五重塔、左手に西金堂というのが主な伽藍配置で、そのほかに僧房や食堂、南円堂や北円堂などがあった。南大門は幅が14.5bで、奥行きが8.5bというから、かなり堂々たるものだが、中央3間(4本の柱の間)には扉があった。『私記』に門の記述は多いが、扉についてはここだけだ。門の両端の柱の間には、北向きには獅子の像が据えたれ、南に向かっては仁王(金剛力士)像が経っていた。この門の柱は全部で18本、6本ずつ3列横隊に並び、横の中央列で前後に仕切られる。そして東西両端の南北二枡は獅子と力士の房というわけ。規模は違うが、現存の東大寺南大門に似ている。」

 寺域を囲む  東側の塀には門が3ケ所あるのをはじめ、四方の門についてかなりこまごまと数と様子が述べられる。南中門というのは中金堂の回廊の門だろう。地形から判断して、南大門と中門の回廊の間に、門をつけるスペースはない。この門に掛けられた鐘とは釣鐘か、それとも鰐口か。いずれにしても、人を集めるために使ったのだろう。門の北側にあるというのだから、打ち鳴らすには金堂に背を向ける態勢になる。仏の礼拝のために、背を向けて鐘を鳴らすようなことは、平安時代にだっていなかっただろう。


金堂一棟

 五間四面、瓦葺きで南を向いている。重層で三間に戸があり、四方には回廊がある。《堂内には》丈六の釈迦三尊が安置されている。金色の四天王の高さ六尺(1.8b)ぐらいの像が、本尊の後ろの左右にある。

  

 興福寺には中・東・西と三棟の金堂があった。2011年現在、あるのは東金堂だけで、中金堂が再建中だ。興福寺はたびたび災害に会っているが、最もよく知られているのは治承4年(1180)の平重衡の南都焼き討ちの際、延焼により東大寺大仏殿などと共に灰燼に帰したときの事で、親通はその40年前にこの金堂を見ている。この金堂は「中金堂」だ。伽藍の焼失に激怒した奈良の僧たちは、後日源平合戦に破れ捕虜となり鎌倉に送られた重衡を、焼き討ちの張本人として奈良での処刑を強硬に要求し、その結果は奈良に隣接の山城国木津(現在の京都府木津川市)で斬首となったが、奈良での処刑を一番強く求めたのは、恐らく興福寺の“僧兵”らであろう。重衡が捕虜になってから処刑までの間に、駿河国手越の里(現在の静岡市駿河区手越)白拍子・千手(千寿)とのロマンスがあり、謡曲「千手」が生まれた。また、法然上人に会い往生への心構えを聞き、その説法への布施として贈った「松風の硯」が、現在も奈良葛城市當麻の當麻寺奥院(実際は知恩院の奥院)の宝物館で見られる。

親通が見たこの堂の本尊は丈六(高さ約4.8b)の釈迦三尊で、もちろん現在はない。四天王も消滅したが、本尊の後ろの左右にあるというのは、どういうことだろうか。四天王はそれぞれ東西南北の守護神だから、その方位に建てられるべきだが、南方守護の増長天を堂の中央に真南を向かって立たせると、南面している本尊と一直線上に並んで、本尊を隠すような格好になる。そこで四天はちょっと居場所をずらして、須弥壇の各コーナーの対角線上に立つのが普通だ。つまり東方守護の持国天は須弥壇前方本尊の左側の角に立つ。それなのにここでは「本尊の後方の左右にある」と言うのだから、本尊を頂点とする二等辺三角形の底辺に横並びしていたのだろうか。それではまるでアメリカンフットボールのデフェンスのラインみたいで、そうなると四方を守護すると言う本来の役目が果たせるのか?もっとも四方に分散していても、四王はいずれも参拝者の方を向いているから、背後と両サイドからの敵には“手抜かり”がありそうだが……。


金銅の灯篭一基 

 基壇からの高さは二丈(6b)ほど。


  灯篭は恐らく中金堂の前に立っていたものだろうが、これだけの記述では大きな灯篭だったということが分かるだけだ。『私記』全体を通じて、ごくあっさりした、悪く言えば“投げやり”のような文がたまたま見られるが、由来が不詳で形態もさして見るべきものはないが、それでも古いものなので、一応は記録にとどめたということでもあろうか。

 『校刊美術資料』では、なぜかここに唐突に、釈迦の眉間に置かれる小仏像の話が現れる。印影本にはない。参考のためにその文を紹介すると、次のようなものだ。「

『校刊美術資料』の補充釈迦の眉間に小さな仏像※を置くことは,普通には見られないことだ。自分が考えるところでは、『観仏三昧経』の第四文によるものか。《釈迦》如来の眉間の光明は、後の世の人々を救うためのものである。時として、眉間から白い光を放ち、その光は八万四千条に分かれ、一つ一つの光は金の山になり、一つ一つの山には数え切れない洞窟があり、その中には諸々の仏の姿がある。それが皆白い光を放ち、経文を唱える。これら仏の眉間の光明は、釈迦牟尼仏の眉間に還って行くという。こうしたことを表わすために、小さな仏を眉間に置くのだろうか。ある人が言うには、祇陀林寺※釈迦像の眉間には、銀の小さな仏像が置かれているそうだ】。

 

    この像は、内大臣(藤原)鎌足公のお志で造られた。堂舎は正室の鏡女王のご造立である。皇極天皇の御世に、蘇我大臣毛人の息子の入鹿が国政の権力を握り、自分勝手な振る舞いをしたため、皇室は衰え、国家は危機に陥った。そこで、内大臣(鎌足)は密かに孝徳天皇を擁立して、(入鹿打倒の)計画をめぐらし、その計画の成功を願って、丈六の釈迦像一体と脇侍二体を四天王寺に造る誓いを立てた。願いは叶って、この像が造られた。天智天皇――清()御原天皇の二年(663)十月に、大臣は病気になった。正室の鏡女王は、(新たに)伽藍を造って、この像を迎えようと提案した。大臣は許さなかったが、再三強く迫られたので許された。山階に場所を定め、立派な堂舎を建てた。都が南(飛鳥浄御原宮)に移るのにつれて、厩坂に移転し、和銅三年庚戌(710)にまたもや春日の地に良い場所を選んで、興福寺の伽藍を造立した。そもそも、この寺にもともとあった仏像は、かつて寺が火災に会った時すっかり焼けてしまったので、その後に長者殿下のご下命で、覚助法眼が再度造ったものだ。その仏の後方の右方に金色の四天王像ある。高さ六尺(1.8b)ばかりだ。四天王が金色というのは、どうしたわけだろうか。詳しいことは、調べてみよう。この堂の柱絵は範舜法橋が描いた。

【治承時代の災害の後、明円法印がこの釈迦像を造った】


  見出しなしでいきなり出てくる“この像”は中金堂の本尊で、像に事寄せて興福寺の歴史が語られる。興福寺のそもそもの起こりは大化の改新の成功の御礼に、釈迦三尊と四天王像を造ったことにあると言う。しかし、寺は仏像なり釈迦の遺骨なりを納めることが唯一の目的とする建造物または構造物があって初めて寺になる。個人宅に仏壇があって阿弥陀如来像が置かれ、毎日礼拝が行なわれていても「寺」とは言わない。上記の像が造られた段階では、まだ寺はなかったようだ。鏡女王の発案で堂舎を構えるようになったのは、大化の改新から18年も後の、日本が唐・新羅連合軍と戦って敗れた「白村江の戦い」があった663年で、場所は山科(山階)だというが、実際は大化の改新で協力し合った中大兄皇子(天智天皇)は大津(滋賀県大津市)に都を移した後の669年と言うのが正しい。この年に鎌足は死んでいる。だから18年もの間は仏像はどのような場所に置かれていたのだろうか。また山科は大津に隣接しているから、時期・場所ともに造営されるのに不自然でない。663年なら都の所在地は明日香(後岡本宮=のちのおかもとのみや)だから、山科はかなりの遠隔地で、選ばれた理由が分からない。

  天武天皇(?〜686)の代になって都が飛鳥浄御原宮になると山階寺も飛鳥に移り、ここでも地名を取って「厩坂寺」となった。正確な位置は不明だが、近鉄橿原線・橿原神宮前東の橿原市石川町付近と推定されている。「山科から藤原宮に移って厩坂寺になった」といった記述をしばしば眼にする。確かに橿原市は藤原京のあった場所だが、藤原京が開かれたのは持統天皇8年(694)で、

  飛鳥浄御原宮の地所もその一角となるが、天武時代には藤原宮は存在していない。従って「天武元年に藤原京に移され厩坂寺と改称された」と言うような記述は、全くの間違いとはいえないものの少なくとも“舌足らず”だ。「文化4年、東京・江東区の八幡祭の人出で永代橋が落ちた」と言うようなものだ。

  そして、710年の平城遷都に伴い山科から現在地へ2度目の引越しをしたのだが、そこで“蘇我入鹿誅殺成功御礼”の仏像も焼失したと思われる。その後、覚助によって新造され、親通はそれを見たわけだが、これも40年後(治承4年)には焼けてしまうとは、思っても見なかっただろう。そして後人の書き入れで妙円という人が再度造像したことが分かる。覚助(?〜1077)は、宇治・平等院鳳凰堂の本尊の阿弥陀如来像を造った大仏師・定朝の子と言われる“仏像制作スタジオ”七条仏所の創始者。確証のある遺作はない。

金色の四天王とは一体全体どういうことか――と、疑問を呈する。確かに金ぴかの四天王は、ついぞ見たことがない。四天王はいずれも甲冑を身につけていて、その甲冑は鮮やかな彩色の模様がついているのが普通だ。そこで、これも何か曰くでもあるのかと「仔細は之を尋ぬべし」。柱絵を描いた範舜(?〜1116)は、いくつかの書に名前が出るだけ。

釈迦の眉間に小さな仏像=このような例は、親通の言うように他に例がない。観音菩薩は額に「化仏」と言う小仏像が、観音のシンボルマークとして付けられるが、それとは訳が違う。

祇陀林寺=釈迦とその弟子のために作られた修道道場である祇園精舎の異称。

鏡女王=藤原不比等の生母、額田王の姉、舒明天皇の娘とか言われる女性。いずれもはっきりしたことは分からず、呼称も鏡王女(万葉集)、鏡姫王(日本書紀)とさまざま。

明日香浄御原宮=7世紀後半に奈良県高市郡明日香村にあった、天武・持統天皇の都。「浄御原」はそれまでに多かった地名を冠したでなく、以後の平城宮や平安宮のように、世の安寧や繁栄を祈念する一種の“雅号”のようなもの。

長者殿下=一族を統括する長老。殿下は高貴な人への尊称。現在は王・皇族にしか使われないが、江戸時代以前は貴族にも使われた。

治承時代の災害=この1行は更生の書き入れ。


講堂 一棟

 七間四面、瓦葺き。またの名は維摩堂という。南向きの扉のある柱間は五間、西の扉も一間、東の扉も一間。北の扉は二間。西の扉を影向戸という。人は出入りしない。維摩会の時に(春日)大明神のご神体がお出入りになるからだ。

 丈六の阿弥陀像が安置されている。説法印を結んでいる脇侍が二体と四王像がある。このうち北方の天(多聞天)が見事である。文殊(菩薩)や浄名(菩薩)の像があり、彩色されている。

 以上が、講堂についてのあらましである。金堂の北にある。この寺では維摩会を執り行う。右大臣(藤原)淡海公(不比等)が和銅七年甲寅(669)この堂で、初めて維摩会を行った。そこで維摩堂とも呼ぶ。この堂の起源は、大織冠内大臣(鎌足)が百済の尼・法明の教えに従って、病を除くため講を開いた。それが今でも続いている。鎌足大臣の家が山城国宇智()郡小野郷山階()村陶原園にあった時、大臣は長い間病みついて良くならなかった。そんなときに百済尼法明が、大臣の家にやって来た。大臣は

 「(私の)病気は治るでしょうか」

と尋ねた。尼は

 「維摩詰(ゆいまきつ)の像を造り、維摩経を読めば、すぐに治ります」

と答えた。この言葉に従って、(大臣は)邸の中に堂を建て、像を造って経を読んだ。百済の尼を導師にして、初めの日に(維摩経)問疾品を解き明かしたところ、病はたちまち全快した。そこで、翌年以降も毎年、この講を催すようになった。天智天皇の八年(669)十月十六日、内大臣は亡くなられ、その後この経の講は開かれなかった。鎌足大臣の次男の淡海公が累進して大臣になった時、彼もまた病を得て、苦しむ様子は父と同じだった。占いのお告げは、維摩会をやめたからだ、ということだった。そこで講を復活させた。寺()は陶原の邸から法光寺に移リ、法光寺から植槻寺に移り、その後淡海大臣は興福寺を建立した。山階陶原の邸にあった堂舎を奈良の都に移築したので、山階寺とも藤原寺とも称した。当時の人たちは、法光寺を中臣寺と呼んだ。内大臣が藤原の姓を賜ってからは、中臣寺を藤原寺と呼んだ。

 またある文書では、次のように言っている。維摩会は正一位太政大臣が皇室がご安泰で国家が無事であるよう、謹んで大きな願を発し、この会を始められた。太政大臣の病気が大層重くなった時、百済の法明という名の尼が大臣に

 「私は立派なお経を持っています。それは維摩経といいます。この経を信仰したら、必ずご利益があります」

と告げた。尼の教えに従って維摩経を信仰するようになると、病気はすっかり治った。そこで大臣は頭を垂れ合掌して

 「これからは子々孫々まで、尊い教えを信じて教えに従いましょう」

と言い、尼は維摩経の教えを説いた。講はある時は七日間、ある時は三日間だったが、いつしか中絶してしまって、法会は行われなかった。慶雲二年乙巳(705)七月、後の太政大臣(藤原不比等)が病に倒れた。その日、大臣は

「私は怠けていて先考の志を継がなかった。これからは自分が先頭に立って、三宝を敬い信じます。僧たちを厚くもてなし、後々まで維摩経を広め、仏法を長く伝え、先祖のなさった事を大事にし供養します」

との誓いを立てた。養老四年(723)に大臣は死んでだが、法会は年月を重ねた。天平五年三月(733)に、光明皇后は改めて願を立てられ、昔のように説教の催しを七日間行われ、祖先の意思が損なわれることはなかった。それ以来、現在まで受け継がれ、絶えたことはない。


  講堂の本尊は阿弥陀三尊だが、当時の興福寺では「維摩居士」の方が重要だったかも知れない。維摩居士は釈迦の在家の弟子で、いわば哲学者のような人。しかし堅苦しくなく酒も飲めば色事にもふける。その思想の深さ・ユニークさには菩薩もタジタジとなるほど。論戦では勝てた者がない。居士が病気になった時、彼にやり込められた経験を持つ者は誰も敬遠して見舞いに行かない。そこで「知恵文殊」と呼ばれた釈迦門下随一の博学とされた文殊菩薩が代表で見舞い、対等の問答をした。その様子は法隆寺五重塔の東面の塑壁になっている。そこで述べられた維摩居士の思想が「維摩経」である。その維摩経が藤原家にとって貴重な経典となった経緯が語られる。

 藤     藤原鎌足が大病で危篤に陥った時、百済の法明という尼が維摩経を信じればご利益があると言うので、言われるようにするとたちまち平癒した。そこで鎌足は代々維摩経を尊崇することを誓い、毎年「維摩会」を開いて維摩経の講読をするようになったが、その会式は何時しか廃れ、慶運2年(705)というから鎌足の二男・不比等、つまり「後の太政大臣」が病気になって反省し、再会された。

そのように有難い維摩居士だから、興福寺では特別な存在だったに違いない。講堂に置かれたのは、ここで「維摩経」の講議が行なわれるからだったということだろう。現在は東金堂に維摩居士像があるが、これは“治承の兵火”の後の再興に当たって、建久7年(1196)に大仏師・定慶(生没年不明)が造ったもので国宝。これもできた当初は講堂に置かれていたが、多分享保2年(1717)の火事で講堂が焼失した際に避難して、その後講堂が再興されないまま、東金堂に落ち着いたと推測される。

 定     慶作の維摩像は眼を吊り上げ、いささか“いかつい” ように見える。それに比べ奈良・法華寺の維摩像(8世紀末〜9世紀初頭・乾湿、重要文化財)の方は柔和に見える。定慶という仏師は鎌倉時代には前・中・後期にそれぞれ一人ずついるが、大仏師の定慶は伝記などは伝わっておらず、興福寺の「梵天立像(重要文化財)」や奈良・春日大社蔵の「舞楽面=散手」などの作が残っている。

=「講」の本来の意味は“仲直り”や“話”だが、日本では集団とか集会の意味に使われることが多い。「頼母子講」や「三十三夜講」はその例。ここでの「講」は「維摩経」の講義をする法会である。

    ※陶原園=山科は中臣氏(なかとみうじ、後の藤原氏)の根拠地だったところで、現在の京都市山科区には中臣氏関係の遺跡が多数あるが、陶原園(或いは陶原郷)と確定できた場所はない。

維摩詰=サンスクリット語のVimalakīrtiヴィマラキーリティの漢訳で、これが正式な姓名だが、略して維摩(ゆいま)という。維摩居士というのはこの場合、在家の仏道修行をする者のこと。死者の戒名にも使われる。

  ※法光寺=法光寺・中臣寺は旧奈良県添上郡東市村(現・奈良市藤原町)の廃寺に関連して、口伝的に知られるのみで、俗称として使われたことは伺えるが、信頼できる文献には見られない。

 ※先考=「先」は死んだ人のこと。「考」は父。「先考」は亡父というのと同じ。「先師」は亡くなった師匠、「先哲」は過去の賢人や聖人。


東金堂  一棟

 五間四面、瓦葺きで西向き。『入道殿大相国記』では、寛仁元年(1017)に、雷火で焼けたという。本尊は金色の丈六薬師(如来)坐像で、光背の中には四十八体の化仏と飛天十二体がある。脇時の二体は立像で、白い色をしている。また等身大の文殊と浄名《二菩薩》の坐像は彩色されている。さらに等身大の梵天・帝釈天と十二神将の立像がある。

 このお堂の元来の本尊は、昔の火災の際にすべて焼失してしまった。その後、(藤原家の)長者殿下が定朝に命じて、この像を造らせた。その光背の出来栄えは見事である。高さが二尺(60a)ほどの十二神将立像は、言い伝えでは新薬師寺のものだった。《他とは》変わった作りざまをしている。しばらく昔に、この寺に移って来た。本尊の台座の上に安置されている。金銅の釈迦坐像は高さが三尺(90a)ぐらいで、蓮華座に坐して裳を垂らしている。脇時は金銅の立像で、左は観世音菩薩、右が虚空蔵菩薩だ。

 この釈迦坐像は、わが国第三十代天皇である欽明天皇の御世の十三年壬申十月に、百済国から贈られて来たものだ。(釈迦)如来がお亡くなりになってから千四百八十年経って、この像が初めて(仏教を伝えるものとして)渡来した。つまりこれが日本最初の仏像なのだ。とりわけ脇侍の二菩薩が奇妙である。この三尊は本尊の後ろに、東向きに安置されている。よくよく拝見すべきだ。

 ある記録には「東金堂一棟、宝塔一基は寛仁年間に雷火で焼け失せた」とある。

宮毘羅大将の像を納めた宝殿が一基、高さが六尺(1.8b)ほどのものが、正面の北側に置かれている。鏡を懸けて帳を垂らして、その内側に像はあるので、見ることは難しい。ある人は、(この像は宮毘羅大将ではなくて)正了知大将だと言う。本当の所は調べてみなくては分からない。瑪瑙の灯篭が一基は、高さが八尺(2.4b)ある。(元は)大和国・豊浦寺のものだとか。

 以上、東金堂のあらましは、このようなものだ。そもそも薬師(如来)と脇侍の菩薩は神亀三年丙寅(726)七月、太上天皇(元明)がご病気で、今上(飯高)天皇が官僚に命じてこれらの像を造らせ、安置させられたという。縁起に出ている。

さらに『帝王系図』では、天平(聖暦)元年己巳(729)に、元明天皇がご病気になられ、造らせられたとある。きちんとした年代を考察するべきだ。ただ『帝王系図』の説を採るのが、妥当だろうか。

 別に調べてみると、ある記録によると「神亀三年七月、太上天皇―飯高天皇のことだ―が病気になられたので、勅命が下され、興福寺東金堂に薬師佛と脇侍の菩薩の像を造った」という。


  興福寺に東金堂と言う堂舎は現存するが、もちろん親通が見たものではない。この堂の草創と言えば聖武天皇が神亀4年(726)に叔母である元正太上天皇(680748)の病気平癒を祈って建立したものだが、現存の堂は応永18年(1411)に焼けて4年後に再建されたもので、享保の大火にも焼け残り国宝だ。ここには、講堂の項に出てきた「維摩居士像」のほかに、居士を見舞う「文殊菩薩像」(鎌倉時代・国宝)に「四天王像」と「十二神将像」の内の8体(どちらも鎌倉時代・国宝)などがある。

      親通の見た本尊は定朝(?〜1057)作の薬師三尊だ。治承の兵火で焼失した。現存の定朝の作として確証のある作は、宇治・平等院の阿弥陀如来(国宝)だけだが“この像が残っていたら……”と惜しまれる。そこで興福寺の僧たちがやったのは、飛鳥の山田寺の奈良時代に造られた金堂の薬師像を奪ってきて、後釜に据える事だった。その像も応永18年(1411)の火災で、頭部だけを残して消滅、頭部は1937年に現在の本尊の台座の内部で発見された。

現在の本尊も薬師三尊で重要文化財ではあるが、定朝作には及んでいるかは疑問である。しかし、その定朝作の像も親通にとってはあまりいただけない出来だったのか、光背は「神妙=見事」と褒めても本尊についての言及はない。光背は合計60もの化仏や飛天の像が取り付けられている派手なものだった。三尊のほかに文殊・浄名菩薩や梵天・帝釈天に十二神将があって(このほかにもあったかも知れない)、堂内は賑やかだったと推測できる。十二神将は小型のもので、本尊の台座(原文では大坐)の上にあったようだが、大きな台座の中央に薬師如来が鎮座し、それを取り囲んで神将が居並んでいたものだろう。「変わった(原文=不可思議の)造り様」と言うが、以前と言えば新薬師寺のものだったそうだから、定朝が作った像などとはマッチしないと、親通の眼に映ったのだろう。新薬師寺は奈良時代の塑像の十二神将(国宝)で名高い。同寺は現在でこそ、小規模な、どちらかといえばひっそりとした寺だが、創建当時は大寺だったそうだから複数の十二神将がいて、そのうちの一つがここに移って来たのだろう。興福寺の他の寺からの伝来だと言うと、ほとんどは“強奪”した物ではないかと疑いをかけられそうだが、この十二神将は果たしてどんなものか?新薬師寺に現存の十二神将は近くにあった岩淵寺からの移入だと言うが、これもどのような経緯で移入されたのかは分かっていない。他所から移入するくらいなら、自分のところのものを他に譲ることもあるまい。だから強奪された――と言う推測も可能だが、移入や流出の時代が分からないのだから何とも言えない。ただ、寺院間の仏像仏具の移動は珍しいことではなかったようで、各寺院の栄枯盛衰に関係しているようだ。

      これらのほかに、金銅製の釈迦三尊があり高さが90aほどという、坐像にしてはかなり大きな像だ。この像は『日本書紀』の欽明天皇13年(552)の項に見える、百済の聖明王からもたらされた仏像だと言うのだが、その仏像なら蘇我稲目に下されて、後に中臣鎌子らの進言で、強制的に「難波の堀江」に捨てられている。それを本田善光(ほんだ・よしみつ)と言う人が“拾い上げ”信州まで背負って帰り、できたのが善光寺ということになっている。その日本初の仏像が、なぜここにあるのか、説明も口伝も書かれていない。そして『書紀』では釈迦なのが善光が拾ったという善光寺の本尊は阿弥陀三尊で、一つの光背の前に本尊と脇侍が立つ「一光三尊式」のものだ。親通が善光寺の説話を知っていたら、何か一言あってもよさそうなものだが、ストレートに、多分寺伝であろう“日本初の仏像”説を受け入れてしまっている。そして「よく拝見すべき」と推奨もしている。しかし、そのような由緒のある仏像なら、なぜ本尊と背中合わせという奇妙な位置に置かれているのかについても言及がない。ちょっと不可解である。「垂裳」があるという。垂裳は一般的には“特別な治世をしなくても世が平安である”問いことだが、この場合仏像の衣装の下部が台座から垂れ下がっていることを意味する。日本最初の仏像は釈迦の死後1480年にやって来たとしているが、釈迦が死んだのは紀元前390年ごろで、欽明13年は紀元552年だから950年ほどしか経っていない。どんな資料を使って1480と言う数をはじき出したものか?

     そして、いきなり寛仁年間の火災についてちょっと触れ、堂内の宮毘羅大将の入った“宝殿”の話になる。宝殿と言うのは厨子のことだろう。扉は閉められていなかったようだが、幕が垂らされていて像は見られない。秘仏扱いだったようだ。それにしても十二神将の内の一尊のみが特別扱いを受けたのだろうか。正了知大将という説もあったようだが、どちらにしても“秘仏”にされる理由は分からない。或いは十二神将はそれぞれ十二支に対応され、宮毘羅大将は「亥」に相当するから、亥年生まれの人が自分の守護神として奉納したのかもしれない。現在、東金堂には木造の正了知大将像があるが、この大将は毘沙門天の弟なのだそうだ。現存像は室町時代のものだが、平安時代にも存在し、寛仁元年(1017)の火災では堂から「熱い熱い」と叫びながら走り出たという伝説がある。現存像がこの大将の復興像ならば親通が宮毘羅というのも正了知だったのだろう。だが、どうして親通は宮毘羅と聞かされたのだろうか。もし宮毘羅も正了知も同時にあったのならば、両者について書かないはずはなかろう。また正了知だったら堂から逃げ出した伝説は聞かなかったのだろうか。寛仁の火事からは130年経っているのだから、伝説はできていただろう。どっちなのかは「調べてみなくては分からない」と言うのは当然だが、恐らくはどっちでもよかっただろう。

     高さが2.4bもある瑪瑙の灯篭と言うのは、笠・火袋・竿などが原石を寄せ集めて作られていたものだろうが、それにしても豪勢だ。瑪瑙は古来からの“宝石”とされ、釈迦の骨と言われるものは瑪瑙が多い。また古代から装身具の花形で、人間よりも大きな宝石の塊には、ここを訪れる人にとって本尊以上にすばらしいものだっただろうとも考えられる。これも元はと言えば、飛鳥の豊浦寺のものだったようだが“強奪品”か。いちいち疑っては失礼だろうが、東大寺からは賓頭盧像や大仏前の灯篭を奪ったりもしている。疑われても仕方がない。

 最    最後に、取って付けたように堂の由来が述べられている。飯高天皇は元正天皇。ここでも堂または薬師像の造営年代について2説が紹介される。『帝王系図』と言うのはどんなものか不明。

 ※山田寺7世紀の半ばに山田石川麻呂の発願で建立が始まり、石川麻呂が讒言により自殺に追い込まれた後完成した。中世以降は衰微したが、12世紀末には厳然として存在していた。

宮毘羅大将=金毘羅の別名。インドのガンジス川の鰐が神格化された。十二支では亥とするのが普通だが、子とする寺もある。船旅の安全を守るとして信仰を集めたから、水運関係者が安全祈願に奉納した可能性も考えられる。十二神将は  薬師如来の眷属の護法善神。

火災=同寺の火災の記録は全て20045年に東京・岡崎・山口・大阪・仙台で開かれた「興福寺国宝展」(法相宗大本山興福寺・朝日新聞社など主催)図録の「興福寺略年表」によった。

伝説=堂から走り出た様子からか「踊り大将」という名が生まれた。

豊浦寺=飛鳥地方にあった、日本最古とされる寺。奈良県明日香村豊浦にある向原寺は、その後身だという。


五重宝塔 一基

瓦葺き。四面に浄土の様子が表されている。

 この塔は、光明皇后の御願で建てられた。天平二年庚午(730)四月二十八日、皇后はご自身で興福寺の伽藍にお出でになり、箕をとって土を運ばれた。宮廷の女人たちも皆同じようにした。正三位中務卿兼中衛大将房前らが文官・武官を引き連れて、一緒に杵をふるって土台を築き、木の塔を建てた。建築工事も装飾を描くことも、一年のうちに終わった。詳しいことは縁起に書かれている。また『入道前大相国治安三年御修行記』には、この塔は寛仁元年に雷火で焼失した。金堂も同じ時に焼けて無くなった、とある。


五重塔は永承元年(1046)の火事で消失後、承暦2年(1078)に再興された塔で、四面に浄土の様子が表されていると記されているが、壁画だっただろう。壁画といっても塔の初層の柱間はほとんどが扉と連子窓だから、扉板の内側や柱・長押などに描かれていたと考えられる。塔の壁画で有名な京都・醍醐寺や海住山寺の五重塔や、滋賀県甲良町・西明寺の三重塔なども、この形式である。

創建に当たって、光明皇后が基壇造りのため自ら箕で土を運んだというが、同じようなことは夫の聖武天皇が東大寺大仏の基壇造りのためやっている(『扶桑略記』『東大寺要録』)。しかしそれは天平17年(745)8月のことで、この塔の建立は天平2年だから、亭主が女房の真似をしたことになる。

  『入道前大相国治安三年御修行記』の入道大相国は、「この世をばわが世とぞ思う……」と詠った御堂関白・藤原道長(9661027)のこと。相国は太政大臣のことであり(大は形容)入道は出家した人で、道長は寛仁2年(1018)に太政大臣を辞し、翌年出家している。従って前()太政大臣の坊主ということだ。治安3年は1023年で死の4年前、塔が焼けて6年経っている。望月のかけるのを予感して回顧の記事を書いた(或いは書かせた)と思うのは穿ち過ぎか。

=「み」は主に竹製の穀物の夾雑物をふるい分ける農具だが、農作物の運搬にも利用される。聖武天皇が大仏基壇構築のため土を運んだ際(後出)は、袖に入れて運んだという。


大湯屋 一棟。

 塔の東にある。大きな鼎があって、十七石(3,060g)入る。


東大寺のものと、建物の規模も釜の大きさも、たいした違いはなかったようだ。現在も大湯屋はあるが、無論後世のもの。


南大門 一棟

 左側の金剛(力士)は覚助の作で、右側のは平命が造った。この二天はよくできている。

  再び南大門の記事である。仁王の作者には触れていないので、改めて触れたものか。作った一人の覚助(?〜1077)は当時の中金堂の本尊の作者と同一人。平命は不明。

   

西金堂 一棟

 五間四面で瓦葺き。本尊は金色・丈六の釈迦像で、《足を組み》左足を右足の上に置いている。右手は肘を上げ、掌を外に向けて五本の指を伸ばしている。左手は膝の上に置いて、中指伸ばして残りの指は曲げている。光背には音楽を演奏する菩薩が十六体あり、炎の形の部分には如意宝珠が取り付けられている。この像は眉間に珠玉を入れていない。それなのに白毫が輝いているべき場所は、白毫がついているように見える。不思議な事だ。脇侍の菩薩は、左が薬王で右は薬上である。

 

 この堂は現在は存在しない。平安時代にあった本尊の釈迦像は、額に白豪が入れられていないのにあるように見える――不思議なことだと親通はいう。なぜそう見えるのか調べたところで何の役にも立たないだろうが、何か塗料のようなものが塗ってあったとか、珠玉ではないが薄いガラス質の物が貼ってあったとかの理由が考えられないでもない。親通は実見したような書きぶりだから、光って見えたことは事実だろう。


十大弟子の像 高さはそれぞれ六尺(1.8b)くらい、それに羅喉羅(の像)が一体。これらの像は仏を取り巻く(ように配置する)のが決まりである。その中に、金色をした老齢の僧がいる。頭に袈裟をかぶっている。これは大迦葉尊者の像である。その様子は立派である。


 ここから西金堂の中にあった仏像や仏具の紹介になる。

 先ず語られるのは釈迦の「十大弟子」像だ。現在伝わっている奈良時代作の乾漆像※(現存は6体のみ)だと考えられ『奈良六大寺大観・第7巻=興福寺T』(1969年、岩浪書店刊)の解説(執筆者=水野敬三郎)もそのように考えているが、単純に決めてよいものか。

 親通は像の高さは6尺(1.8b)くらいとしているが、現存の6体のうち舎利弗(しゃりほつ)像が152.7aあるだけで、その他はみな150a未満だ。スケールで測ったわけではないだろうが、30aの誤差は目測の誤差にしても大き過ぎる。親通の身長がどのぐらいだったか分からないが、大体15060aだったとして、自分よりも小さめの像を30aも高いように見間違えるだろうか?現実にのっとって考えればあり得ないとも言える。『私記』の文中で仏・菩薩らの立像のスケールを尺単位で言うのに、3尺とか4尺とか8尺という数字は出てくるが、5尺は出てこない。その代わり等身大という表記がある。5尺前後の像はすべて「等身大」と表記されているとして間違いない。十大弟子を等身大としていないのは、明らかに現存像でないことを示している。京都国立博物館蔵の平安時代末期の作と見られる『興福寺曼荼羅』には、親通が見たと思しい西金堂内の様子が描かれているが、十大弟子も描かれていて、一人(迦葉)が頭巾のようなものを被っているのも、親通の記述通りだ。この画像は堂内の正確な描写でないことは勿論だが、これらを直ちに現存像に結び付けられるものではない。そこで考えられることは、興福寺には現存像とは別の十大弟子像のセットがあったのではないかとということだ。2セットあったとしても、両方とも西金堂にあったのではないのは当然だ。一つの堂に同一の群像が同居すると言うことは、まずあり得ない。従って、親通の記述が間違いないとすれば、現存の像は西金堂以外の堂にあったもので、親通の見た十大弟子は治承の兵火か、それ以後の災害で消滅し、別の堂にあったセットが現存していると考えた方が、辻褄が合う。

 また十大弟子像とは別に羅喉羅の像があったということも納得が行かない。羅喉羅は元来が十大弟子の一人だから、セットの中に入っていて当然である。なぜ十大弟子とは別にこの像があったのだろうか。しかし親通は不思議に思わなかったらしく「之を尋ぬべし」とは言っていない。

乾漆像=原型を作り、布で巻いて漆を塗り乾燥させ造った像。奈良時代には盛んに作られたが、平安時代いい甲には見られなくなった。現在は彫刻や美術工芸で使われている。

15060a=日本人の時代別の平均身長の研究もあるが、いつの時代にも巨漢もいれば、小男もいる。親通が巨漢だったか小男だったかは不明だが、中肉中背と考えておく。


等身大の金色の准胝観音 目が三つ手が十八本あり、ご利益の多い像であって、本尊の左側にある。言い伝えでは、昔はこの寺に年少の修行僧は住んでいなかった。僅かながら入山して学ぶ者がいても、成年にならないうちに必ず散り散りになって、学業をやり遂げる者はいなかった。そこで彼らの師匠たちは、この像に(弟子たちが留まるよう)祈ったところ、その後は留まるようになった。それからというものは、寺に居住する童子たちは、毎年九月十八日を式日と決めて、法会の道具を調えて供要した。これを准胝講という。また、腰が痛む子供などは、誠を込めてお祈りすれば、必ずご利益を受けられるという。


准胝(じゅんてい)観音はあまり聞き慣れない名の観音で、西国三十三箇所の三十三観音のうちでも京都・上醍醐寺准胝堂に祀られているのが唯一の例で比較的よく知られているが、総体的に作例は少ない。阪東三十三箇所の観音の中には含まれていない。興福寺にも現存しない。あまり名を知られていないので、手が多いことから千手観音に間違えられがちだ。母性を持つといわれ、子供を授かることや安産の祈願をされるが、年少修行僧が寺から離脱するのを防止したのも母性によるものか。そのほかに若年者の腰痛に利益があったようだ。中気封じ・眼病治癒・安産とかに霊験を現す仏は多いが、腰痛――しかも少年向き――の観音などは、他に例がないだろう。


帝釈()の像一体と四天王や力士の像 これら八部衆は奇妙な様子をしている。この像は、大和国の額田部寺の像だった。ところが西金堂に移って来てから、毎年のように寺内に揉め事が起きたので、長承年中(11325)に元の所へ返した


ここで「八部衆」の名が出てくる。これは、現存の国宝・天竜八部衆のことと考えられる。

しかし、記述の曖昧さが気になる。

先ず「斯」の字だ。原文(奈良文化財研究所間の映写本による)は

「帝尺(釈)像一躯四天王力士等像(アキ)斯八部衆等者不可思議之造様也 件像者大和国額田部寺之像也 (以下「返本慮了」まで、別行で小文字) 但此像渡西金()之後毎年寺中有■乱之事 仍長承年中返本處了」である。「斯八部衆」とは現存の「阿修羅」をはじめとする「天竜八部衆」のことと推測され、「興福寺流記」の西金堂の項に「八部神王」と記されているのが該当するとするのが、一般的になっている。この「斯」の字は、その直前の「像」の字からやや離れて書かれている。そして「四天王力士等像」は文頭の「帝尺天像一躯」との間にも少し空きがある。これは帝釈天と四天王・力士と八部衆を並列的に記したものと解せるが、そうなると八部衆の前の「斯」は何を意味するのだろう。「斯八部衆」で熟語になっているとは思えない。意味が通じない。「斯」の語義は“この”とか“これ”“かかる”“このような”など指示代名詞であり、必ず指示の実体がなくてはならない。例えば、この文の次の項目である「霊験観音宝帳一基」の記述では、柱立てに続いて「斯殿内安置十一面観音像」として十一面観音が安置されている場所を示している。しかし「斯八部衆」の「斯」は文中の何を指すのかハッキリしない。或いは「斯」は衍字(えんじ)だとすれば話は済む。しかし、衍字だと断定する根拠は何もない。一方、親通があえて「斯」の字を入れたとするなら、どうしても指し示すものがなくてはならない。そうなると、写本が原文の一部を欠落させたと考えられる。欠落は、帝釈天と対になってあったはずの梵天にも及んでいる。この像は『日記』では記載されているし、平安末期の作と思われる、京都国立博物館像の『興福寺曼荼羅』の中の西金堂の描写にも見られる。

   さらに、八部衆像は元はと言えば額田部寺のもので、持って来たはいいが移入以来、寺に揉め事が多いので“疫病神”みたいに思えて返却したと言うのだ。額田部寺は古くは額安寺といい、奈良県大和郡山市額田部寺町にある、聖徳太子に縁の寺である(大安寺の項の註参照)。そこに返却したものが興福寺に伝わっているはずはない。後日、再度持って来たと考える向きもあるようだが、揉め事のタネを再度持ち込むだろうか。そして「但此像……返本処了」は、長承年中(113235)に返したと言うのだから、親通は保延6年の再訪――『私記』を書いた巡礼の際には、既に西金堂にはなかったのだ。それをあるように書いているのは、先の巡礼の時はまだあって『日記』には「十大弟子、八部衆等」と記している。つまり『私記』の「斯八部衆等」と言うのは「かつては、こんな像もあったのだ」という追憶の記事とするのが妥当ではないかとも思われる。『興福寺曼荼羅』には阿修羅はじめ、それらしい像が描かれているが、それは額田部寺から持ち込まれ、返却される以前の描写ではないだろうか。

   このように考えると、現存の「天竜八部衆」も西金堂にあって親通が見たものか、いささか疑わしくなる。『私記』には西金堂の帝釈天はじめ力士・四天王・八部衆についてのスケールの記述はない。しかし、十大弟子が1.8bもあったのだから、これらの像もそのぐらいはあったのではないだろうか。そうなると、現存の八部衆も奈良・平安時代には他の堂にあっ手、比較的小型だから、災害時にも容易に避難させることができたと言う推測も可能である。ちなみに、乾漆の人物像は150cmのものと180cmのものの重量差は約2kgぐらいだろうと、漆芸の専門家は言う。30cmの身長差と2kgの重量差――しかも全山焼亡の危機に際して助かる可能性が高いのはどちらであるかは、言うまでもない。、

33=奈良文化財研究所編「奈良の寺」(2003年、岩浪新書)では「28体」としているが、どういう数え方によったものか?また、何時の時代のことなのか?

柱立て=編集用語で「被せ見出し」ともいう。行の頭に一節の内容を要約して記し、本文は別行から始めず、見出しに連続して書かれる。その際の見出しに相当するものを「柱」といい、柱を設定するのを「立てる」という。

衍字=文中に入り込んだ意味のない無駄な文字。

 

霊験観音の宝帳一基 この堂の中に、等身大の十一面観音の像が安置されている。この像は行基菩薩がお造りになったもので、服寺のものだったた。

寿広和尚(774〜?)は尾張国の生まれで、出家して興福寺へ来て法相宗の理論の研修に余念が無かった。温和な性質で才能は抜群、多くの人に慈悲を施し、いろいろな業績を残した。(ある夜)近所へ行こうとして、拷問坂の南の越田池の北側辺りにさしかかると、闇の中から声が聞こえ「寿広、寿弘」と呼んでいた。驚いて四方を見渡したが、誰もいない。鬼が人を呼ぶことがあると聞いていたので、身を守る秘法を念じて歩き回って見たところ、その声は西方の田の中から出ていた。そこへ行って探してみると、等身の十一面観音が土中から頭だけ出していた。寿広は喜んで像を掘り出し、泥を洗い背負って興福寺に帰り、南大門に留め置いた。(寺中の)どの堂に安置しようか考えていると、大きな童子がひょっこりと現れて、西金堂にするよう指示した。和尚はこの言葉を疑わしく思って、(中)金堂に納めようとして背負おうとしたが、(像の)重さはそれまでと違って大きな岩のようだった。そこで西金堂に安置した。南面の端の戸から入れたので、その後その戸は閉めたままにして、開く事はなかった。{二世の悉地を祈る者どもの一人は不空だ。}そもそもこの堂では釈迦悔過会をするため、古くから本尊として釈迦如来像があるのだが、霊像が入ったので十一面悔過の法会をするようになった。服寺には、光背を残すだけだ。その光背の霊験はあらたかだ。


 西金堂にも厨子が置かれていて、中の十一面観音は寿広という和尚が田の中に埋もれていたのを掘り出して持ち帰り、安置したのだと言う。ところが、この観音様は服寺と言う寺のもので、作ったのは行基だという“由緒正しき”像なのだ。それがどうして田に埋もれていたのか、寿広が呼びかけられる前に誰もそれに気付かなかったのか。像がなくなった服寺では探さなかったのか。  像を見つけたのは「拷問坂の南の越田池の北側」というが、拷問坂は吉田東伍『大日本地名辞書』によれば、京都府木津川市から奈良市に至る途中の「奈良坂」の別名だと言う。ところが越田池(こしだいけ。大日本地名辞書では「こせたいけ」)は現在の奈良市北之庄町の五徳池だと考えられ、その間は奈良坂の南の外れ「北山十八間戸」からでも直線距離で約9`もある。坂と池とが近接していたわけでないなら、地名の記述の間違えか、後世に地名がが変わったと言うことか。『興福寺縁起』には越田池の名は出てこない。そして、観音像は盗賊が盗んだが捨ててしまったとしている。寿広は見つけたものの、拷問坂に服寺の仏があるとは、思ってもみなかっただろう。興福寺まで持ち帰り、所有者不明として自分の寺のものとし、中金堂に置こうとしたはいいが仏像に拒否され西金堂に納めようとしたのだが、正面からは入れず側面の南側の戸から入れて、そこは以後閉鎖されたままになり、堂では古くからの釈迦悔過会があるのに十一面悔過会が行なわれるようになったそうだ。一方、仏像がなくなった服寺には光背が残っていて霊験あらたかだったそうで、此れを本尊の代わりにしたので「光塵寺」と呼ばれるようになった(興福寺縁起)。

宝帳=宝は貴重なものの形容で、帳は“とばり”(幕)で、カーテンでたやすく見られないようにしている常態を示す。多分、像の周囲を取り囲むように張り巡らされていたのだろう。或いは厨子に納められ、開口部に垂れ幕が下げられていたのか。

服寺=正体不明だが『日本現報善悪霊異記』には、聖武天皇の時代に「諾楽(奈良)の左京」に「服部堂」があったことが記されている。服寺はこの堂に縁の寺か。所在地は左京九条三坊(現在の奈良市九条町付近)と奈良市西新屋町説があり、共に拷問坂と越田池からはかなり離れている。

霊像=特に霊像というからには、8世紀から親通の時代(12世紀)までには種々の霊験談が付け加えられ、特別な仏像として扱われていたことを示すと思われる。

北山十八間戸=奈良市川上町にある国の史跡。寛元元年(1243)に西大寺の忍性(にんしょう:12171303)によって建てられた重病者収容の福祉施設で,わが国で初めてハンセン病患者を受け入れた。現在の建物は17世紀後半の再建。18の部屋に分かれていることから「十八間戸」と言われる。

  ※十一面悔過会=十一面観音に犯した罪を懺悔して、魂の救済を祈願する法要。

光塵寺=意味不明。


銀の釈迦立像一体 高さは六尺三寸(1.9b)で、十一面観音を入れた宝帳の北側にあり、高さ九尺(2.7b)の八角の厨子に入っている。この像は元は海竜王寺の仏だった。この寺は角寺ともいい、法華寺の東北にある。言い伝えでは、海竜王寺は光明皇后のご発意で建てられた。玄ム僧正が唐に渡って、仏教を研究する目的を遂げ無事に帰国した際に、皇后が●●(発願)建立された。そして、興福寺の智尊僧都が海竜王寺の別当だった時に、盗賊を恐れて寺の役職者が相談して長者殿下に申し上げ、お指図により永久二年(1114)の春、この像を興福寺に移し申し上げた。


    現在、興福寺には奈良時代作の銀製仏像の腕が残っていて、重要文化財になっている。右手の上腕部から指の第2関節までで42aあり、高さ1.9bの仏像の腕としてはスケールが合致し、貴金属の銀の仏がそう沢山作られはしないだろうから、この腕は親通が記した釈迦像のものとして間違いあるまい。海竜王寺は奈良市法華寺北町にあり、角寺は隅寺であり藤原不比等邸宅跡の東北の端に寺建てられたので、この名が起こったという。明治以降衰微して、昭和30年代のはじめ頃までは“荒れ寺”の印象が強かった。平安時代にも盗賊を恐れるところをみれば、かなり“落ち目”だったのだろう。そして、これは平和的に興福寺に移った。

   銀の仏像は、東大寺にも丈六の廬者那仏あったことを親通は記しているが、完体として残っているものは、東大寺法華堂の不空羂索観音の宝冠についている化仏(装飾的な小像)が知られているぐらいなものだ。


金鼓一個 直径は約八寸(24a)で台がある。これは磬の役目をする。堂内正面の壇の下にある。金銅で作られた獅子の背に立てた台に懸けてある。金銅の四匹の竜が纏わりついている。金鼓の上には、高さ六寸(18a)ほどの合掌した菩薩を置くが、揺れ動いて向く方向が一定しない。

   

金鼓は、平安時代には「こんぐ」と読まれていたようだ。磬は元来は楽器だから、親通は仏具としての金鼓に楽器の性格を認めていたようだ。楽器といってもシンバルのような役割だ。

 この金鼓は形態や寸法の描写から、現在は『華原磬(かげんけい)』として知られている。謡曲『海人(あま)』に名が出て来る。唐時代の作とも言われ、謡曲でも唐の皇帝から興福寺に贈られた三つの宝物の内の一つということになっている。親通はこれを「磬の役目をする」といっているが「磬が磬の役目をする」というのも奇妙な記述だ。恐らくは『華原馨』という名称を知らず、形からして鰐口の類と思っていたのだろう。

こんぐ=金鼓の呉音読み。屋代弘賢は『道の幸』で、壬生寺を訪ねて鰐口であることを了解している。


波羅門の立像 高さ三尺(90a)の木造である。この像は、金鼓の側にある。撞木を持ち金鼓を打つような格好をしている。波羅門は足の下に朽木形模様のものを踏んでいる。木の腐ったような様子は奇妙なものだ。考えて作ったものではないようだ。とても変わっている。言い伝えによると、陳列方法が波羅門の像のようだという。或いは妙憧菩薩の古い様式だともいう。

 

  波羅門はインドの身分階級の最上位のバラモン教の僧を指す。奈良時代に東大寺大仏の開眼供養の導師を勤めたインドからの渡来僧の菩提僊那は、波羅門僧正と呼ばれていた。朽木形模様は、木材が腐食して木目が見えたり虫が食ったような形状のパターン。「考えて作ったものではない」というが、本当に木材が腐食し、巧まずして模様のようになったと思った言か。「陳列方法が波羅門のようだ」と言うくだりの原文は「口伝云、陳如波羅門影云々」であり、正確な意味は分からない。妙幢菩薩は地蔵菩薩の別名と言われる。地蔵菩薩だとしたら、この形態はいかに古式だとはいえ奇妙に過ぎる。

 本尊以下の像の由来が述べられているが、もちろん親通が眼にしたわけではない。

 ※陳=意味不明。印影本を見ても「憍の字かどうか判然としない。


 以上が西金堂のあらましである。そもそも釈迦と脇侍の像や羅漢・神王などの像は、藤原(光明)皇后が天平六年甲(734)正月十一日に、亡くなられた橘大夫人(三千代)が極楽往生されるようにと、命日に当たって造ったものだ。その日は僧四百人を集めて、それぞれに袈裟を与えて法会を催し、経典に決められているような行道をした。その際の袈裟は、少しばかり今でも残っている。


 橘三千代は光明皇后の母だが、元は敏達天皇の曾孫とされる美努王の妻で、後に橘諸兄となった葛城王を生んだが、藤原不比等と再婚した。その理由は、美努王が太宰師となって九州に赴任した間に、不比等と不倫関係に陥ったためだとも言われる。大夫人と言うのは天皇の生母のことだが。三千代は天皇を生んでいないが、娘の光明皇后が正1位と大夫人の称号を追贈した。法隆寺には「橘夫人念持仏」と言われる阿弥陀三尊像と厨子が伝わっている。

行道=僧たちが列を作って経を読んだり、声明を唱えたりして練り歩くこと。


南円堂

八角の宝形造りで、東向き。西金堂の南にある。

  金色をした丈六の不空羂索観音の坐像があるが、頭の上の化佛は地蔵菩だと口伝ではいう。詳しいことは調べなくてはならない。


   「西国三十三箇所」の第9番霊場として知られる南円堂は、弘仁4(813)に藤原冬嗣(775826)が、父・内麻呂の供養のため建立した。現在の建物は寛政元年(1789)にたてられたもので、創建から数えると4代目。本尊の不空羂索観音は、文治5(1189)の康慶の作。化仏は地蔵だというが、地蔵の化仏と言うのは眉唾物だ。


 四天王の像 このうち南方天(増長天)がすぐれている。


    素っ気無い記述で、序文で言っている「仏像や建物の美しさとか立派さとかは、それぞれ人の目や心によっての違いがある」ということを自ら示している。恐らく同じ時代に、同じ作者によって、セットとして作られたであろう四天王でありながら、そのうちの一点だけを、特に推奨しているのは、親通の好みの“何か”があったのだろう。


  等身大の六祖像 この六師とは善珠僧正、玄賓僧都、行賀、喜操、常騰僧都、信叡である。本尊の西側に置かれている。その像の木の欠損した部分は、漆を塗った布を張って補修されている。善珠僧正の後ろにある障子に書かれた字は、弘法大師が書かれたものだ。

  また、賢聖の画像があり、伝教大師の画像が東戸の内側の南隣、玄奘三蔵のが東の戸の北隣、恵果阿闍梨が南の戸の西隣、法全阿闍梨の子供の時の肖像が恵果の絵の隣にある。これら四人の肖像の色紙形には銘文があるが、みな弘法大師が書かれたもので、絵も同様に弘法大師が描かれたのだという。

  古老の言い伝えでは、八宗の祖師の肖像すべてを、大師が自ら《色紙形の字を書くのに》筆を振るうと同時に絵も描いておかれたものだが、山階寺が火災の折に、この四点だけを漸く救い出せただけで、他の四点は焼失してしまった。


     六師とは、奈良時代から平安初期にかけて、興福寺と法相宗に深い関係があった6人の高僧。その木像は大分痛んでいたようで、以前の火災の際に避難させようとして傷ついたかとも考えられる。しかし、永禄の兵火で焼けてしまって、鎌倉時代に康慶一派が再制作し、現在は善珠・行賀・常騰の像が残っていて国宝だ。また、最澄・玄奘・恵果・法全の画像もあった。これらを空海が描いたものとしているが、寺伝の受け売りだろう。大体、ここで「山階寺」という名が出てくるのはどうしたわけか?空海が描いたなら当然9世紀だろうが、興福寺が山科寺だったのは7世紀だから、とんでもない時代錯誤だ。奈良時代の山階寺の画像を平安時代の空海が描けるわけがない。賢聖の画像のうち、恵果は唐の僧で食う会の師。法全(ほっせん)はその孫弟子で円仁(慈覚大師)の師。その法全の画像がなぜ子供の時のものなのかも不思議だ。

  ※八宗=華厳・法相・三論・律・天台・真言・倶舎・成実の各宗派。


金銅の灯篭一基 この灯篭は堂の前にある。その格好は立派なもので、他所のものより優れている。宇治殿(藤原頼通)が、この形を写して平等院の阿弥陀堂の前に立てられたという。


この灯篭は現在、国宝館に収蔵されている。火袋の扉の堂ができた由来を記した陽刻銘文から、弘仁7年(816)に作られたことがわかる。元々は6枚だったが、現在は4枚しか残っていない。字は橘逸勢(たちばなのはやなり・?〜842)の筆と言われるが、確かなところは不明。台座と竿は鎌倉時代の後補で、頂上の宝珠もなくなっている。


南円堂についてのあらましは、以上のようなものだ。この堂の形は火炎か鉢を伏せたような格好をしているが、その格好は他所の寺では見られない優れたものだ。本尊の観音や天王などの像は、長岡右大臣(藤原内麻呂、756812)が特に大きな願を立てて、造られたものである。その後、閑院贈太政大臣(藤原冬嗣、775826)が弘仁四年(813)にこの堂を造って、これらの像を安置したのだ。

  古老が言うには、房前宰相が弘法大師の教訓に従って、不空羂索《観音》像を安置するために南円堂を建てられた時、壇を築く人夫の中に老人が交じっていて、歌を詠んだ。その歌とは

「フタラキノ ミナミノヲカニ スミイセハ キタノ藤ナミ イカニサカエム」(補陀洛の南の丘に住まいせば、北の藤波いかにさかえむ=補陀洛山の南に寺の地を定めたからには、藤原〈北〉家はどれほど栄えることだろうか)

 また別の人は、詠んだ歌は次のようなものだと言う。

「フタラクノ ミナミノカタニ イヘヰシツ イマソサカエム キタノフチナミ」(補陀洛の南の方に住み居しつ、今ぞ栄えむ北の藤波=補陀洛山の南に寺を建てるからには、今からも、藤原〈北〉家は栄えるであろう)

 伝説では、この老人は率川明神で、春日明神のお使いとして人夫の中に交じって、この歌を詠んだのだとか。歌の句については二種類あるが、どっちが正しいのか調べるべきだ。

  この堂の大垣の東南の部分に、小さな門がある。その扉も時には開くことがある。訴訟の時、僧らが連れ立ってこの門から出る。


    堂の形が“火炎か、あるいは鉢を伏せたような格好”というのは、現在で言う「宝形造り」の建物だったということのようにも思えるが、それでも「他所の寺では見られない」と言っているし、次項の北円堂については「宝形造り」としているのだから、法隆寺の夢殿のような、いわゆる「宝形造り」ではなかったようだ。観音像や四天王像は藤原内麻呂の発願で作られ、堂はその子である冬嗣が建立したというのだが、内麻呂の発願とはどんなものだったかは分からない。現在流通している案内・ガイドの類には、仏像と建物の願主が別人だとしているものは見当たらない。ただ冬嗣が内麻呂の追善供養に、この堂を建立したとするばかりだ。

    堂の創建にまつわる古老が語る伝説が紹介されているが、これによると南円堂は不比等の子、鎌足の孫である房前が建立したことになっている。それではこの堂の建立は遅くとも房前が死ぬ737年以前で、創建の時期は冬嗣の建立したという813年より76年も遡ることになる。ちゃんとした寺伝があるのに、なぜこのような話が流布したのだろうか。親通は率川明神が詠んだという歌の詞が多少違うのを気にしているが、それよりも、こっちのほうを気にすべきだった。

 穂陀洛は普陀洛山ともいい、観音菩薩の住む所とされる。春日大社から御蓋山(春日山)にかけてを補陀洛の延長とする考えがあったようで、その南側に寺地を決めたのを慶祝する歌だが、興福寺は春日山の南というより、むしろ西にある。しかし、北を言うための南であり、北は房前に始まる藤原四家筆頭格の北家を意味している。つまりこの歌は藤原北家のCMソング、或いは応援歌と解せられる。老人に身を変えた工事の手助けに入ったた卒川明神(いざがわみょうじん)は、興福寺の西南、奈良市元子守町に神社があり、創建は推古天皇時代で、奈良市内では最古の神社とされるが、春日明神の進出で、配下にされてしまったようだ。

  ※房前宰相=藤原氏北家の祖(681737)。謡曲『海女』に出てくる。

  ※藤原四家=他の三家は武智麻呂(むちまろ:680737(を祖とする南家、宇合(うまかい:?〜727)の式家、、麻呂(まろ:695737)の京家。いずれも不比等の子。この四人の兄弟は、いずれも天平9年(737)の5月から9月の間に死んでいる。


北円堂。.

八角形の宝形造りで、南向き。本尊は丈六の弥勒(如来)坐像。二体の脇侍菩薩は、右が法菀林、左が大妙相である。四天王の像は高さが六尺(1.8b)=ぐらい。

 以上が北円堂のあらましである。昔あった仏像はみな塑像だった。養老五年(721)八月に飯高(元正)天皇が右大臣長屋王に命じられ、贈太政大臣淡海公(藤原不比等)の忌日に当たり、造らせて供養したという。その後、堂が焼けてしまった際に、三尊の頭だけ辛うじて取り出した。修復するのに、新たに全体を造り、持ち出した頭部を腹の中に納めた。脇侍の二菩薩も同様である。

以下の「同じこと」までは後人が張り紙して書き入ている左が法苑林菩薩で、右が大妙相菩薩だ。苑は園・薗と同じこと


    運慶作の無着・世親像で知られる北円堂の本尊は、現在も往時も弥勒佛だが、養老5年(721)に元正天皇が藤原不比等供養のために作らせたという当初の像は、塑像だったという。塑像は奈良時代には盛んに作られ、東大寺法華堂の日光・月光両菩薩や執金剛神、戒壇院の四天王、新薬師寺の十二神将など傑作揃いだが、平安時代になって姿を消す。土製だから破損しやすく現在まで残っている作例は少ない。当初像も火災の折に避難させられず、首だけもちだし、新たに作った像の腹部に納めたという。ということは、親通が見た弥勒像は寄木造だったことが分かる。北円堂が治承の回禄の前に焼失したのは永承4年(1049)だから、寄木造は定朝が技法を完成させた時期に当たる。再建されたのは寛治6年(1092)で、定朝は既に亡いが、丈六像の首を容れるぐらいの空洞を作ることは、仏師にとっては容易だっただろう。

    後人が“お節介”な書入れをしているが、脇侍としている法菀林菩薩も大妙相菩薩も聞きなれない名だ。弥勒佛(如来)の脇時はこの二菩薩で、奈良・薬師寺講堂の三尊は従来薬師三尊とされてきたが、2005年に講堂が復元的新築されたのに当たって、三尊の呼び名も奈良時代に戻って弥勒三尊となり、脇時は法菀林菩薩・大妙相菩薩に改められた。


東円堂

八角形の宝形造りで、南向き。

本尊は、手が六本ある丈六の不空羂索観音の坐像である。この堂は、待賢門院のお志で建てられた。興福寺東門の北側近くにあり、堂の南門の西脇に桜の木がある。これが有名な〈奈良の八重桜〉である。古くからの語り継ぎでは、この桜は他の桜が全て散ってしまった後に、花を咲かせる。これは大変珍しいことである。

 「アハレテフ コトヲアマタニ ヤラシトヤ ハルニヲクレテ ヒトリサクラム」 (哀れという事をたいしたことだとは思わないので、春の盛りに遅れてひとりだけで咲くのだろう)

  ある人が言うことには、この歌は『古今和歌集』に載っている。昔の人が四月に花を見て詠んだのがこの桜だ。私が三月十五日にこの木を見た時には、花はまだ咲いていなかった。本当に遅咲きの桜だ。昔の人が詠んだ歌そのままだ。

  延喜の御世(901923)に、奈良の人が八重桜を伐って、天皇のお目にかけたことがあった。天皇は蔵人を勅使として伊勢御息所(みやすどころ)に遣わされ、桜を贈らせられた。勅使は歌を詠んで奉るよう言われたので、この歌を献上したのだという

  「イニシヘノ ナラノミヤコノ ヤヘサクラ ケフココノヘニ ニホヒヌルカナ」(古の奈良の都の八重桜今日九重に匂いぬるかな=古都の奈良を飾る八重桜が、今宮廷で美しさを誇っている)


 この堂は現存しない興福寺の東門は、東金堂と西金堂の一直線上の、現在の国道369号に面してあったことが分かっている。369号の奈良県警察本部あたりから北は、かつて雲井坂と呼ばれた坂道で、この坂が東大寺との境界になっていた。「堂の南門」という記述があるから、一院の形を取っていたことが分かる。その門の脇に八重桜があり、それが古来有名で、歌にも歌われている。奈良に八重桜はこれだけしかなかったわけではないだろうが、遅咲きで有名になり「奈良の八重桜」といえば、この木を意味するようになったようだ。四月にこの木の花を見て歌が読まれたという四月は太陰暦の四月で、現在なら五月に相当する。親通が三月十五日というのが現在の四月中旬で、まだ開花していなかったというのだから、この地方としては遅咲きだ。「イニシヘノ……」の歌は、小倉百人一首に伊勢大輔(いせのたいふ、生没年不明)の作として収録されている。伊勢御息所と言うのは伊勢という名の天皇に寵愛された女性のことだが、歌は御息所が作ったのではない。たまたま一条天皇(9801011)時代に宮中に開花した「奈良の八重桜」の枝が献上され、受け取りの席に居合わせた伊勢大輔(生没年不明)と呼ばれる女性が即興的に詠んだというのが正しいと思われる。伊勢(御息所)も百人一首に

「難波がた 短き葦の 節の間も あはで此の世を 過ごしてよとや」

という歌が収められているが、大輔とは時代が少々異なる。「ココノヘ」は「九重」で宮中を意味する。もちろん八重に対して対句である。また「今日」は「いにしえ」に対すると「今日」であるのと同時に、奈良に対する「京」という意味を含むかと思われる。伊勢大輔は代々歌人の家に生まれ、彰子に仕え紫式部や和泉式部とも親しかったという。父親が伊勢神宮の神官を勤めたことから「伊勢」の名がついた。

    「奈良八重桜」と呼ばれる品種の木は、どんなものか長い間分からなかったのが、1922年、東大寺境内で見つかり、国の天延記念物に指定され、現在ではかなり広い地域で見られる。

 ※待賢門院=鳥羽天皇の皇后(110145)。百人一首に「長からむ心もしらず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ」という歌が選ばれており、作者は待賢門院堀河だ。そこで、皇后の和歌が百人一首にえらばれていると思う人がいるが、歌の作者は待賢門院に仕える堀河という女官。

    

 以上が、興福寺の諸堂舎のあらましである。ただし、食堂や中門などは、格別の事がないので、記録しない。


     堂塔や仏像・仏具などについての記載は一応終わる。食堂や中門は格別などはたいした事がないとして、触れていない。しかし、他の寺では消滅した建物の跡まで触れる念の入れようも見せている。多分、興福寺では書くことが多過ぎて、飽きがきたのではないか?そして「格別のことはない」という判断は、どういう理由によるのか、気になるところだ。


興福寺再興にあたって三つの不思議な出来事の伝説

  山階寺の本尊は丈六の釈迦像で、天智天皇の御世に鎌足大臣が子孫のために、その像を造り、北山階に堂舎を建てて安置させた。大臣の息子の不比等はその堂を解体して、春日の地に移築したが、寺の名はやはり山階寺と呼んだ。その後三百年たって焼失した。そこで、当時の長者殿下が祖先の遺志を引き継いで、改めて造立する際、仏殿や僧坊・門廊の傷んだ(土)壁を補修するに当たって、諸国から集めた人夫は土をこねるため、水を汲むのに寺を出て二三丁(22030b)を往復する煩わしさがあり、余計な労力を費やして工事はなかなか進まずないのに、落慶供養の日は迫って来た。困り果てていたところ、にわか雨が降り、たちまち晴れ渡ったが、講堂の西の雨水が溜まって池のようになった。人夫らは争って水を汲み土をこねたが、水は尽きることがなかった。以前に雨が降った時には、このような水溜りはできなかった。不思議に思って、三尺(90a)四方を深さ一尺(30a)ばかり掘っててみると、清水が湧き出してきた。この水のおかげで、壁は完成した。僧たちが集まって「人の手間を省いて、工事を完成させるために、天の神が天の神は雨を降らせ、地の神は水脈を通したのだろう。この寺が栄えるかどうかは、この井戸にかかっている」と言い合った。そこで石で囲いを造り、いまでは寺全体の閼伽井となっている。そもそも、この寺は建てられている土地は、亀の背のように盛り上がっていて、掘っても水は出て来ない。そこで昔から、春日野を流れる僅かな水を引き込んで、諸坊の用水にしているが、大きな流れでないので、旱魃の時には絶えがちだった。そんなところに、自然に水が湧いて閼伽に使えるようになった。これが第一の不思議である。

  次に、供養の日には、寅の刻(午前35)に、仏()を堂内に納めることになっていたが、空は曇って雨模様だった。雲が垂れ込めて星も見えず、時刻が何時だとも知られなくて困っていたところ、堂の上五六丈(1215b)ぐらいのところの雲が突然切れて、北斗七星が見えたので、寅の二点(午前四時)だとわかり、仏を運び入れることができた。これが二番目の不思議な出来事である。

  次に、仏を入堂させて天蓋を吊ろうとした時、大仏師定朝が言った。

 「天蓋はとても大きいのです。長さが二丈五尺=七・五b=ほどで差渡しが(一)尺九寸(57a)の材木三本を(天井に)組み込んで、横に並べて置いて吊るさなくてはなりません。前もって言っておかなかったのは、大変怠慢でした。今となってはどうしたものでしょう」

  夜が明けて、柱に縄を結びつければ何とかなるだろうが、そこの壁が損傷するだろう。修理させるにも時間がかかり、供養の刻限に差し障りが出るだろうと、(一同は)困り果てていた。すると、大工の吉忠之長が言うには

  「金堂の真ん中の梁の上に(ちょうど)長さ三丈ほどで径は尺九寸の木を、うっかり間違えて天井に置いてきてしまいました。お咎めを恐れてそのままにしていましたが、今このようなことになったからには、申し上げます。ただ、その木が天蓋を吊るす場所にあるかといわれれば、なかなかそうはゆかないでしょう。もともと計画してやったことではありません。今さら天井で、大きなものを動かすのは大変です。早く調べてみてください」

 役に立つかどうかは別にして、まずは木があるのを幸いとして、定朝は弟子を呼んで天井裏を調べさせたところ、三本の木はうまい具合に天蓋を吊るす場所に、寸分たがわず計画的だったように並べて置かれていた。そこで天蓋は、無事に吊るすことができた。時代は(鎌足・不比等らよりも)下っても,誠意を込めてした仕事の福は、この通りである。これが三番目の不思議なことである。

    

    造寺のような大事業となると、しばしば“神仏の加護による”とされる奇跡談が生まれるが、ここでは超常現象が1件、奇跡と偶然のどちらにでも受け取れるような事象が1件、全くの偶然が1件が述べられる。

      第1の“奇跡”は降雨が水溜りになり、干上がらないので壁土をこねるのに大変役立ったというのだ。水溜りの水が干上がらないのは、挿して珍しいことではないが、以前にはそのようなことはなかった場所だというから、一応は神仏による造寺工事の応援だったと、できないこともない。それにしても、奈良時代の興福寺境内一帯の水利は劣悪だったようだ。

    2の不思議は天然現象だから、時によっては人間に都合よく動くこともある。しかしあまりにも“願ったり叶ったり”状態になると、普段は“棒ほど願って針ほど”も叶わないことが常の世の中 だから、神仏のご加護と思うのは当然で、それを“奇跡”と言うのなら奇跡であろう。ただし、仏殿の上が4、5丈(1215b)のところの錐が晴れても、星は見えないだろうが……。

しかし第3の不思議は、不注意のミスがもう一つのミスを帳消しにしただけの話で、例えて言えば、エラーで生かした打者が次の塁を欲張ったので、これを刺して事なきを得たみたいなものだ。天井裏に残した材木も、それで関係者が利益を得たわけではない(定朝と大工は責任追及を免れた?)。

 第1の不思議なら、遠いところまで水を汲みに行かなくてはならないのがくろうのたねだったところ、たまたま強い雨が降り、工事現場近くにかなりの水溜りができたので、早速これを利用したのに尾鰭がついたとも考えられる。第2の不思議も、天候はさほど悪くはなく、供養のしばらく前には晴れ上がっていたのだが、漆黒の闇だったのが供養寸前に一部だけ晴れたことにされた。平安時代にも近江宮以来の漏刻や時香盤など、時計の役目をするものはあったのだから、グリニッチ標準時を知るのでもなければ、時刻の見当をつけるのに、さほど苦労はいらなかったのではないか。そうでなければ、毎日の勤行や食事などは、どのようにして定期的に行われていたのか。

いずれにせよ、寺に箔をつけるための“半創作ストーリー”と言える。

その後三百年=興福寺の創建を鏡女王が藤原鎌足の病気平癒のため山城国山階(山科)に建てた669年とするなら、300年後は10世紀の後半と言うことになるが、その頃の興福寺に大火はない。1017年に東金堂と五十の塔が焼けたが、再建供養が行われたの1031年。その後1046年に伽藍の殆どが焼け、1048年に金堂・講堂・南円堂などが完成している。定朝のミスの電設ができたのは、この時のことか。定朝の死去9年前、親通の大階巡礼の92年前のことだ。、

時香盤=香を肺を敷いた盤上に線状に置いて、その燃える速さで時間の経過を知る道具。


この寺の付近の神仏に縁の場所と不思議な事

竜穴の跡 この竜穴のある場所は、興福寺南大門の東南の崖の下だ。入り口は最近埋めて塞がれた。しかしその跡は、まだ残っている。言い伝えでは、佐保殿の下に通じているのとか。

以下カッコ内は後人の書き入れ】この穴は、建保四年(1216)正月十七日の朝、また以前と同じように現れた。口径は四尺(1.2b)ぐらいで、奥行きはどのくらいあるのか分からない。陰陽師の時資が占って、七月中に火事があると予言した。そしてその月の二十九日に、東院の大湯屋が焼けてしまった。竜穴が出現したのは、その前兆だったのだ】。


  これから、またしても“不思議話”の数々が紹介される。他の寺に比べて断然多い。興福寺は特に不思議な事象に因縁が深かったのか、記録好きが多かったのか。

  佐保殿は『今昔物語』などいくつもの文献から、藤原房前の邸宅だったとされているが、場所については確かなことはわかっていない。穴はそこに通じているというが“竜の穴”と言うからには、人口の穴とは考えてはいなかったのだろう。崖の南側の「猿沢池」には竜が住むという伝説があり、それに関連付けられたものか。親通が書き留めて時には埋められていたのが、70年ほど後にはまた現れた。しかし詳しい記述が無いのは、“探検”してみようという物好きはいなかったようだ。ただし、占いの材料にはされた。

猿沢池 この池は興福寺の南大門の前にある。一般に言い伝えられているには、平城天皇と淳和天皇とが戦った時、平城天皇の皇后がこの池に身を投げて溺死された。皇后は、従三位伊勢朝臣の子の正四位下勲四等老人(おゆ)の娘であり、高岳親王の母である。伝えられるところでは、桓武天皇には三人の皇子がいた。第一の皇子が平城天皇で、第二の皇子が嵯峨天皇で、この二人は母が同じ兄弟であるが、第三皇子の皇子で淳和天皇となる大伴皇子の母は、贈太政大臣藤原百川の娘である。桓武天皇は将来のために遺言して、〈自分の死後は、初めは長子が即位し、十年経ったら三人で順番に位を譲りあって、この決まりを乱すことのないように〉と申された。そこで三人は譲り合った後、長子である平城天皇が即位した。遺戒を守って十年経たなければならないところ、(平城天皇は)六年にもならないのに、自分の第三皇子の高岳親王を皇太子にして、位を譲ろうと図ったので、大伴親王は安殿親王(嵯峨天皇)に相談を持ちかけた。

「平城天皇は先帝の遺戒を乱したからには、もう骨肉の親族ではありません。一緒に攻撃しましょう」

安殿親王が答えるには

「天子の位を得るのは、人の力の及ぶところではありません。今、平城天皇が遺戒にそむいても、それは自分の徳が薄いからで、恨んではいけません」

と忠言したが大伴皇子は聞き入れず、叛乱を起こして攻撃した。平城天皇はたちまち宮廷を脱出し、天皇の地位を放棄した。この事件のため、皇后は池に投身して溺死したのだ。平城天皇は悲しまれて御歌を詠まれた。

「ワキモコカ ネクタレカミヲ サルサハノ イケノモクツト ミルソカナシキ

(吾妹子が ねくたれ髪を 猿沢の 池のもずくと 見るぞ悲しき)(私の愛しい人の髪が寝乱れたような有様で、猿沢池の水草のように見えるとは、何と悲しいことか)

平城天皇は悲しみに耐えず、帝位を辞されると俗世を離れ、仏道に入られてしまわれた。高岳親王もまた皇太子氏の地位を離れて、出家された。その法名は真如であり、弘法大師のお弟子の真如親王がその人だ。

 大師がなくなられた後、仏法の深奥を究めるために、天竺へ向われた。砂漠を越えて羅越国に到着されたが、その後の消息は分からない。お気の毒に親王は、道半ばで亡くなられたのだろう。思えば、かつては皇太子であらせられたのに、今は一人旅にさすらわれ、お亡くなりになった。遺体も収容されていない。


   興福寺の五重塔のと対になって奈良観光の“目玉”の一つである猿沢池 が「薬子の変(くすこのへん)」に関係があったというが、現在ではそんな大事件とは単にある帝の寵愛を失った采女(うねめ=女官)が世を果敢なんで投身したことになっている。名の起こりは『大和名所図会』には天竺(インド)の「獮猴池(みこうち)」を写したのでこう名づけられたというが、獮猴は猿のこと。そして「ワギモコガ……」の歌は柿本人麻呂の作だとしている。7世紀の人麻呂が9世紀の「薬子の変」にkんした歌を詠めるわけはないが、いったん間違うと定説になってしまう例で、名著といわれる『大和名所図会』の著者・秋里籬島も、手もなく引っかかっている。現代のマスコミと異ならない。采女が投身の前に脱いだ衣を掛けたという「衣掛柳」が合ったが、2010年には枯れて伐採され、その後復原されたかどうか?采女関係では采女神社(古くは采女祠)があり、中秋の名月の日に「采女祭」が催される。なお、世阿弥元清(生没年不明:14~15世紀)は、采女の入水をテーマに能楽「采女」を作っている。

羅越国=シンガポール辺りにあったとされる国。

薬子の変=藤原薬子(?〜810)は平城天皇の高級女官で愛人。兄の藤原仲成と共に誠治に介入し、譲位していた平城上皇と嵯峨天皇の抗争を激化した。敗北した上皇が出家した躯薬子は自殺した。


浄名院 空也上人が住まわれた旧跡だ。西側に井戸があり、阿弥陀井という。空也上人が掘られたものだ。水は清らかで冷たい。今でもあって、汲み上げて方々に分けている。


    空也(90372)は「阿弥陀聖」とか「市上人」とか呼ばれる。鉢を叩いて念仏を唱え踊る「六斎念仏」(踊念仏)の開祖とされる浄土教の先駆者。浄名院は『大和名所図会』にも『和州旧跡幽考』にも出てこない。江戸時代には消滅していたのだろうが、空也と法相宗の興福寺はどんな関係にあったのか?それが「不思議なこと」として、ここに取り上げられたわけでもあるまいが……。しかし、後世の記録文書の中には、興福寺の声明と鉢叩は関係を示すものもあるから、そこそこの曰く因縁がはあったのだろう。

  ※和州旧跡幽考=『大和名所記』ともいう。林宗甫(生没年不明)という学者が、元和元年(1681)に著した、大和の詳細な案内書。郡別に、古書を引用して寺社・山川などを紹介している。20巻。


菩提院 玄ム僧正が住んだ旧跡である。裏側に井戸がある。玄ム僧正の閼伽井で、《今は》空穴だ。走り井の上の、築垣の下に小さな門がある。玄ム僧正を葬った塚である。興福寺から東南五丁=550b=余り離れた荒れ野の中に十三重の大きな墓があるが、僧正の頭をここに埋めたので、頭塔という。その墓石には、いろいろと仏や菩薩の像が彫られている。

 古老は以下のように言い伝える。《玄ム》僧正は、仏教研究のため唐国に留学して帰国しようとした時に、唐の人が言った。

  「あなたは日本に帰ってはいけません。なぜかと言うと〈玄ム〉という名の音は〈還亡〉つまり〈還れば滅びる〉に通じます。だから、帰国したら必ず災難に会うでしょう」

  しかし、僧正はその言葉を信用せず、帰国した。その後、天平十八年(746)五月二十三日、僧正は太宰小貳藤原広嗣の霊の祟りで雷に打たれ、体は五カ所に飛び散った。首の落ちた所を墓にしたので、墓を「頭塔」と名づけた。広継の霊というのは、肥前国の鏡宮大神のことだ。この神が怒ると、直径二尺(60a)ほどの鏡が光を放って空を飛ぶという。近い例では、天永元年(1110)に肥前の社のある山の中腹から飛び出して、光を放って国府の方角へ飛んで行ったという。詳しいことは、その年の肥前国から中央官庁への公文書に書かれている。

  別の言い伝えもある。玄ムと広嗣の仲が悪くなった原因は、女性がらみの揉め事である。そもそも小貳広嗣朝臣は、正三位式部卿藤原朝臣(宇合)の長男である。才能があり学力にも優れ武芸にも秀でていて、日本と漢(もろこし)の両国にわたって傑出した人物だった。天平十年(738)十二月、太宰府の小貳兼行将軍に任じられた。これは外国の侵攻を防ぐためである。天平十四年(742)十一月、右近少将に昇進した。新羅の軍を防いで国家のために功績があったからだ。その頃、玄ムは天皇(聖武)のご寵愛をいいことにして、わがままな振る舞いがつのっていた。小貳が都に残した奥方に艶文を送った。当時の人たちは誰もが〈僧正は殺されるぞ。広嗣は天下の優れものだ。一本の矢で何でもし止められる。必ず(玄ムを)やっつける手段を考えるだろう〉と言い合った。玄ムはこのことを天皇に申し上げ、天皇は玄ムの言う事を信じられ、天平十五年(743)に緊急の命令を下され、東山・東海・山陽・山陰・南海と合わせて五道の軍勢一万七千人を召集され、全軍が集まると、従四位上大野朝臣東人を大将軍に、従五位上紀朝臣飯麻呂を副将軍に任命し、広嗣討伐に発進させた。十月に広継は(豊前国の)板櫃河に進んで、木を組んで船を作り、渡河して京に向おうとしたが、《これを迎え撃って》佐伯常人と安倍虫麻呂が弩を発射し、広嗣は河の西側に退却し、竜馬に乗ってあっという間に肥前国松浦郡に到り、値嘉浦で船に乗って海へ出た。海上を漂っていると、凶風が帆を飛ばすにように吹き、大きな波は船を覆さんばかりだった。挙句の果てに船は漂流し、いったん小値嘉島に着いたが、松浦郡の橘浦に帰り着き、広嗣の遺体が三日間空に浮いて、電光のように光り輝いていた。この霊が怒ると、鎮座されている場所が光輝いて、その様は鏡に反射するようだった。そこで鏡大明神と呼んだ。そして怨恨のもととなった玄ムは、広継の霊に打ちのめされたのだ。

  ところで玄ム僧正は慶寛と一緒に唐に渡り、開元十三年(725)四月に五台山を訪ね、まず文殊菩薩の化身である老人に出会った。次いで菩薩が姿を変えた麗しい鳥を見た。東台に登って焼香して菩薩を礼拝すると、五色の雲がたなびいて、山林は光を発し、地面は瑠璃を敷いたようになり、金の縄が道筋を示して掌を見るように明瞭だった。山や谷は平らになって東方に白い獅子が見えた。その頭と尾は紺色で、背には金色の蓮華座を背負い、その上には文殊菩薩がお座りになっていた。眉間の白毫からの光は転地を照らし、獅子の毛の端からも金色の光が放たれていた。菩薩の身の丈は二丈(6b)ほどで、無数の菩薩が取り囲まれていた。光背は輝かしい鏡のようで、山の四方五百里以内にいた僧も俗人も、男も女もみなその光を見て、かつてない驚きであった。このことは僧正の『五台山記』に出て来る。僧正はこんな不思議なお目出度い事を体験しているのだ。それはつまり、行いが立派だったためだったからに他ならない。どうして、女の事で広嗣にとりころされたのだろう。これが異変というものだろうか。


    玄ムは逸話・伝説の多い人物だが、唐への留学から帰国して法相宗を広めた。聖武天皇の母・藤原宮子(?〜754)の病を治すなどして、藤原家にも食い入っていた。宮子藤原氏の病は欝病だったと思われる。このため聖武天皇を生んで36年も対面しなかったという。それを玄ムは心理療法で治したのだろう。このために宮中でも勢力を奮うようになったのだが、後に失脚して筑紫・観世音寺に左遷された。住房だったという菩提院という名の堂は、猿沢池の東、三条通の南に旅館やホテルに囲まれるようにして現存する。ここに玄ムの墓(墳廟)があると親通は言うが、玄ムの“墓”については、引き続き述べられている「頭塔」(づとう)が有名だ。そして藤原広嗣(?〜740=原文では広継)との因縁が語られる。

    広嗣は、藤原式家の祖・宇合の長男で、天平10年(738)に大和守賢式部少輔だったのが、左大臣・橘諸兄ににらまれ太宰少弐に左遷させられ、それを不服とし、その頃起こった災害を種に、諸兄腹心の吉備真備と玄ムを批判する内容の上奏文を聖武天皇に送り、一方で反乱を起こしたが北九州市での会戦に破れ、最後は海外逃走を計ったが激しい風波で五島列島の小値賀島(原文では将値嘉島)に押し戻され、官軍に捕らえられ唐津で処刑された。その無念から霊が空から玄ムをつかみ上げ、バラバラにして奈良で撒き散らしたといわれる。そしてその首が落ちた所が頭塔になり「玄ムの首塚」とも言われた。だが、「頭塔」は、元はと言えば二月堂の「お水取り」を始めた実忠和尚が築いたもので、石仏を配置した土のマウンドだった。現在は屋根付きの石龕に囲われている。

玄ムのバラバラにされた身体の各部分が落ちた場所は、それぞれ各部分の名が付けられた。眉と目が落ちた所は眉目山町(まめやまちょう)で、肘が落ちたところは肘塚町(かいのづかちょう)といった具合である。眉目山町は、近鉄奈良駅の北、奈良女子大の南の一角だが、現在の表記は「大豆山町」だ。「眉目」で「まめ」と読むというのは難しいという、理由にもならない理由で、昭和20年代に地名改悪が行なわれた。東大寺碾磑門(てがいもん)の一帯は碾磑町だったのを、手貝町にしてしまった。読みにくい地名・人名は全国いたるところにある。それらは全て改められているわけではない。読み方が難しいというのでなくても、自治体の役人の浅はかな便宜追及から変更された地名も多い(変更の全てがそうだとは言わないが)。地名は生活環境の重要な一部だ。歴史とか、文化とか、特殊性を示すよすがを、それらに対する何の配慮も敬意も無く、単なる便利が公衆のためなどと考えるような公務員を持った自治体は不幸だ。大体「大豆山」にしたって、これをいきなり「まめやま」と読む人がどれだけいるだろうか。恐らく80%は「だいずやま」だろう。それに眉目を大豆にするなら「京終=きょうばて」や「肘塚=かいのづか」は、詠みにくくないというのだろうか。読みにくさばかりでないと言うなら、どんな理由があったというのか。少なくとも昭和30年代の初頭に奈良の人たちから聞いた理由は「読みにくいと市役所の人が言わはる……」であった。

     閑話休題。玄ムは唐に留学中、奇跡を体験しているという。奇跡を体験できるのは、普段の行いが立派だからで、そんな高僧が女の事で他人の恨みを買うとはどういうことだろうという、ストレートな疑問を親通は呈する。ナニ、仙人だって女性のふくらはぎを見て失敗もする。不思議なことではない。広嗣が玄ムに恨みを持ったのは、実は自分の妻に艶書を送ったからだという解釈があるが、事の真偽は別として、光明皇后とも通じたという噂話もあり、結構“好色坊主”だったのかも知れない。

 唐で見た、文殊菩薩が獅子(唐獅子)に乗っているのは決まりごとだが、この獅子の苦手は、体に寄生するある種の虫で、すなわち“獅子身中の虫”である。これを退治するのは牡丹の葉に宿る露の雫で、そこで獅子は牡丹とは、切っても切れない関係になる。これが俗にいう“牡丹に唐獅子”である。江戸時代のしりとり歌はこの句に始まる。冒頭句は“牡丹に唐獅子竹に虎”で、以下“虎を踏まえて和藤内、内藤様は下がり藤、富士見西行後ろ向き、剥き身蛤馬鹿柱、柱は二階と縁の下、下谷・上野の山桂、桂文治は落語家(はなしか)で………”と延々と続く。

閼伽井=仏前に供える水を汲むための井戸。ふじわら

走り井=水が湧いて流れ出す泉。

   ※少貳兼行将軍=少貳は大宰府の次官の下位の者。行将軍の行は、位階は高いが職の階級は低いこと。つまり大臣相当の位階を持つ者が、次官を努めるようなものである。似たよu

な例で    うな例は、日露戦争の海鮮に当たり陸軍大将の児玉源太郎が、参謀本部次長が急死したので、緊急処置として少将相当職である同職への降格人事を受け入れた(ついで満州軍総参謀長に就任)。

竜馬=素晴らしい駿馬の形容だろう。

 ※小値賀島=「おじかしま」と読む。全島が長崎県北松浦郡小値賀町になっている。

橘浦=長崎県南松浦郡の似合った港の古名か。


元興寺 

飛鳥寺という。また法興寺・建通寺ともいう。通称は飛鳥寺


元興寺は、大安寺と並んで別号の多い寺だ。『東大寺要録・巻第二』には「東大寺大会時元興寺献歌」として

 美那毛度乃々利乃於古利之度布夜夜度利阿須加乃天良乃宇太々天萬都屡(みなもとの のりのおこりしとぶやとり あすかのてらの うたたてまつる)という慶祝歌を贈っている。

これは「みなもと()の のり()の おこ()りし 飛ぶや鳥 明日香の寺の 歌奉る」であった、巧みに古来からの「元興寺」「法興寺」「飛鳥寺」「明日香寺」の名を読み込んで、自分の寺のPRにしているとも受け取れる。

「元の法の興りし」と言うのは、元興寺の前身が、蘇我馬子が建てた本邦初本格寺院「法興寺」であることを表し、「飛ぶや鳥」は「飛鳥寺」とも呼ばれたことを示している。「明日香の寺」は、素直に歌を奉った寺の所在を示すと考えて良いだろう。

『大和志料』(1944年、奈良県教育会刊)に付された、手向山八幡宮の社家に伝えられたという古地図によると、東門には「法満寺」という額がかかっていたようだ。

奈良でも屈指の大寺だったが、江戸時代みはすっかり勢いを失っていた。現在はかつての僧房が寺としての命脈を伝え、本堂と僧房(禅室)は国宝、奈良時代の僧・智光が夢で見た極楽を描かせた描かせたという『智光曼荼羅』は重要文化財・


金堂一棟 

五間四面、瓦葺きで南向き。屋根が二重で四方に回廊がある。

  本尊は金色をした丈六の弥勒菩薩の坐像で、その台座の花と葉の様子は変わっている。この像の鼻の穴は、普通の仏像の鼻の穴とは異なっていて、常住寺の本尊のようだ。常住寺は内裏の東北にあり、桓武天皇が遷都された時のご発意で建立された。一般に野寺というのがそれだ。

  そもそも『五百問事経』で調べてみると、仏像の鼻の穴は彫ってはならないと、はっきり示されている。それなのにこの像に鼻の穴があるのは、どうしたことだろう。とはいえ、現実にそうなっているのだから仕方がない。それには何か根拠があるのだろうか。よく調べてみなくてはならない。

  脇侍が四体ある。その内の二体は千手観音、もう二体は世親・無着の像で、それぞれ周丈六だ。四天王とその邪鬼は奇妙(な格好)だ。浮き彫りの十二神将の高さが三尺(90a)くらいのものが、本尊の後ろの厨子の中にある。言い伝えでは、源朝の図像を手本にして造ったということだ。よく分からないことだ。


     本尊は丈六の弥勒菩薩だというが、鼻の穴が掘られているのが、普通の仏像と違っていると指摘されている。仏典に規定があるようだが、法隆寺の救世観音にも、奈良の大仏にも鼻の穴がある。常住寺は『日本国現報善悪霊異記』にも出て来る。桓武天皇(737806)の時代に職権濫用で地獄に堕ちた役人の供養のため、ここで法会を行なったといい、現在の京都市右京区北野白梅町の北野廃寺と呼ばれる寺跡がそれではなかったかとの説がある。

    脇侍が4体あるというのも“異常”だ。しかもそのうちの2体は千手観音だというのだから、素直には受け取れない。また“菩薩”と呼ばれる事も多いもせよ、無着・世親という僧侶が脇侍というのも肯けない。そして薬師如来の眷属である十二神将があるのにも首を傾げざるを得ない。まさか宮毘羅対象賀の本地が弥勒如来だから、残りの11神もついでにいるとでも言うことだろうか。源朝は「玄朝」乃誤りだろう。玄朝は10世紀末の絵仏師で『東大寺要録』によれば、永延元年(987)に東大寺大仏殿の繍(縫い物)の曼荼羅が破損した時、修理に当たったという。『要録』では「元興寺玄朝」としえいる。図像集を作ったようだ。

 ※本地=元来の姿、


中門観音

 この像は中門に安置されている。それ故に中門観音と呼び、有名なご利益の大きい像である。帳が下がっているので、見るのは難しい。この像には次のような言い伝えがある。かつてこの寺の僧が千日の間、毎日長谷寺に参詣したが、その期間中に長谷寺は焼けてしまった。何を拝むという当てもなく、堂舎の焼け跡を訪れると、灰の中に《十一面観音の》頭の上につけられた仏の面が、厳かに損なわれることなく、焼けずにあった。その僧はその面を拾って修復し奉ったが、その後も霊験あらたかで、僧も俗人も絶えることなくお詣りしている。ここで行をするものが六十余人いて、中門衆と呼ばれる。

 この門の二天と八夜叉の像は変わっている。その左側にいる天の後壁東側の柱脇に立つ夜叉は、左手に蛇を掴み右手はゆるく握って拳を作り、口を開いて歪めている様は、滅多に見られない奇妙なものである。


 中門のどんな場所に置かれていたのかは分からないが、観音像が置かれるとは、あまり聞いた事がない。前出の古地図では重層だから、第2層中央に安置されていたかと思われる。帳が無くても容易には見られないだろう。

 元はと言えば、初瀬・長谷寺の“焼け残り”像だというが、長谷寺は奈良時代の創建時から、現在の本堂ができた慶安3年(1650)までに、7度の火災に会っている。頭部だけ無事だったので、胴体を継ぎ足した像でも霊験はあらたかだった。「高名の霊像」と親通は紹介している。

 二天は門の通路の両サイドに立つ金剛力士だと解せられるが、八夜叉が“同居”しているというのは、金堂の弥勒と脇時の在り様と同様に異様だ。夜叉は古代インドの獰猛な鬼神だが、仏教に取り込まれて仏法の守護神となった。毘沙門天の一族とされている。仏像の作例としては、京都・教王護国寺(東寺)の五大明王が有名だ。その中の軍荼利(夜叉)明王は、体に蛇をまとうとされている。親通は、仏像に蛇が絡むのが奇異に思えたのか、つかむのが珍しいと思ったのか?

 ※軍荼利=サンスクリットでは「グンダリ=kundali」とは、水瓶またはとぐろを巻いた蛇のこと。


南大門

 「元興之寺」と書いた額がある。葛木魚養が書いたと言う。金剛力士の像はとても古い塑像で、これこそ日本一の出来栄えである。(ただし)左側の像はさきごろ転倒して、後になって改めて木で造られたもので、たいしたことはない。


 寺号の額に「元興之寺」とあったというが、どうして「之」の字が入ったのか、親通は不思議に思わなかったらしく、何もコメントしていない。ちなみに「奈良志料」所載の古図の南大門のキャプションは「南大門額元興寺」である。金剛力士の塑像は“日本一と”絶賛されているが、惜しい哉、一方の像は壊れて木像のものにかわっていた。土製だから壊れやすいのはやむをえない。それが風雨の吹き込む門に置かれたというのは、かなり乱暴な話だ。ところが、法隆寺の中門の金剛力士も塑像で、こちらも一体は木製と交代している。奈良時代の人だって、土製のものが脆弱なのは知っていただろうが、予算の関係もあったろう。そして壊れりゃその時のこと、また作ればいいぐらいに思っていたかも知れない。葛木魚養(かつらぎのなかい)は、朝野魚養と言う方が良く知られている。医師で書の名手。元来は「葛木」姓だった。吉備真備のが唐に留学中、現地の女性との間にもうけた子だという伝説があり、弘法大師の書の師匠とも言われる。


石灯籠一基

金堂の基壇から三丈(9b)離れてたところに立っていて、高さは一丈(3b)ほどだ。


 前出古図にも見える。大きさしか記述がないところをみると、特長の無いものだったか。


五重塔一基

 瓦葺き。この塔は金堂の南東にある。四面には浄土の様子が表されている。その仏や菩薩の様子は、例のないものだ。険しい山の積み重さなりや曲がりくねった道など、何とも説明のしようがない。『仏法本記』では、敏達天皇の十四年乙酉(585)二月に、蘇我大臣が仏のお告げで手に入れた、釈迦の骨に種々の宝物を加えて、元興寺の塔の柱の礎の下に封入したという。これは《飛鳥の》本元興寺のことであろう。柱絵は立派なものだ。その中でも、西北の角に描かれた絵は、注意して見なければならない。特殊なものだ。


この寺の塔は金堂の真後ろにある講堂を取り囲む三面僧房の外、東側にあった。江戸時代末期(安政6年=1859)まで存在したが、近所の民家の失火で類焼してしまった。焼け跡からは1927年の発掘調査で、金の延べ板や宝玉類、古銭が大量に出土した。この寺にはミニチュアの塔もあって、現在は国宝として宝物館に収蔵されている。


 ※蘇我大臣=蘇我馬子。馬子が前年に感得した仏舎利を、明日香の「大野の塔」に納めた事が『書紀』に記されている。


吉祥堂

 南向き、五間四面で瓦葺き。この堂の別名を小塔院という。五枚の障子に仏像が描かれている。その絵の中で飛天が特に優れている。正了知大将を主題にした曼荼羅も、同様に優れている。毘沙門と吉祥天の像も障子に描かれている。この堂の内部の東端に金色の仏像が置かれている。その像の頭上に天蓋がある。仏の背面に登り竜が昇天する様をしているが、天蓋全体がりっぱなものだ。

 護命僧正(750834)の等身大の坐像が、堂の東南に据えられている。その格好は奇妙なものだ。世間の人が言うには、この僧正は平凡な僧なのだが、《ただ一度の栄誉として》僧正に任じられた。本当かどうかは知らない。堂の東北の角に輿があるが、それは護命僧正のものだそうだ。

 この堂は、金堂の南西の方角の境内の隅にあり、光明皇后のご意思でつくられたもので、八万四千小塔が安置されている。それらは《木を》轆轤で挽いて作られたもので、高さは七寸(21a)ほどだ。こうしたことことから、この堂を小塔院と呼ぶ。これらの塔にはそれぞれ『無垢浄光陀羅尼経』の五真言のどれか一つが納められているそうだ。仁和寺の勝定房阿闍梨が言っている。


 小塔院というからには、現在宝物館にある五重塔は、かつてはここにあったのではないかと、誰でも思いたくなるのではないか。

五間四面の建物というが、親通は『七大寺日記』では「三間四面之堂也」としていて、小塔院とも言うとはしていない。古図によれば小塔院は2層の八角堂として描かれている。現在、奈良市西新屋町に、小塔院という寺院があり、境内は元興寺の遺跡として国の史跡に指定されている。

 立派な天蓋がる仏像があるというが、なんと言う仏なのかについては触れていない。吉祥堂というからには、吉祥天が本尊であるべきだろうが、屏風の絵以外に言及はない。

 そもそも、吉祥堂と小塔院が同一のものか、別物かはハッキリ解明されてはいない。また。小塔院は、国宝・五重小塔があったからだという説のほかに、光明皇后御願の木造小塔群に由来するとの説とは違った意見もある。こうした混乱の一因が『巡礼私記』にあるとするならば、このごろwebで流行の“道中記”の類も、うっかりとは書けないと考えさせられる。

 法隆寺には『百万塔』という名称の木製小塔群があり、内部に世界最古の印刷物とされる『浄光明陀羅尼経』が収められているが、これは藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の収束祈願に称徳天皇の発願で作られたもので、光明皇后も同じようなことをしていたと見える。

 護命(ごみょう)は法相宗教学の大家で、桓武天皇の追善供養の講師を努めるなど、どうして平凡な僧とは言えない。親通も俗説を信用していないと見受けられる。空海とは親しく、最澄とは対立していた。


講堂

 本尊は丈六の薬師如来坐像で、脇侍が二体は高さ八尺(2.4b)ぐらい。等身大の十二神将の像と厨子が二基ある。《この厨子は》本尊の左右にあり、その外側・内側に描かれた絵は見慣れない種類のものだ。


 丈六の坐像なら高さは8尺だから、脇時と同じ高さだったわけで、これが台座に載ったら脇侍は小さく見えただろう。ちなみに奈良・薬師寺金堂の国宝・薬師三尊も本尊が坐像で脇侍は立像だが、本尊の高さが2.54bであるのに対し、脇字は月光菩薩が3.15b、日光菩薩が3.17bである。本尊が薬師如来だから、十二神将がいるのは当然だが、厨子にはどんな“もの”が入っていたのか?厨子の壁の内外に描かれた絵が、見慣れない種類のものだとか。菩薩とか飛天とか、建物とか山水とか言っていないところからすると、全く何が描かれているかの判別もつかなかったということか。


鐘楼一棟

 この鐘楼の様子は、他の寺のものに抜きん出て立派だ。道場法師が《抜き取ったという》鬼の髪は、本元興寺の宝蔵にあるから、ここには記さない。


 鐘楼が立派だという記述に続いて、唐突に道場法師の事が出てくる。道場法師は通称で『日本国報現善悪霊異記』の上巻第3「雷のむかしび(好意・お礼の意)を得て生ましめし子、強き力ある縁」に、元興寺の童子だった時、夜毎に童子を殺す鬼の髪を引き抜いた話が載せられている。(もと)元興寺は明日香にあった、平城京へ移転以前の寺のこと。


極楽房のこと

 前の方で書いたから省略する。

以上が元興寺のあらましである。この寺の中で、金堂の様式が特に優れている。斗形や肘木などにはすべて木絵や伏物で飾られている。南面の上層に額があり、〈弥勒殿〉と書かれている。その他のも、全ての堂舎の礎や瓦が、他の寺よりも見事で、柱絵も同様に立派なものだ。

 『仏法本記』にかかれているところでは、欽明天皇の御世(53171)に、百済からもたらされた弥勒菩薩の石像は、古京(藤原京)の元興寺の東金堂にあった。そして今はこの寺にその仏像はない。どうしたものか。

 『聖徳太子伝暦』の記述。推古天皇の十三年乙丑(605)のことだが、天皇は常に太子の言われることをよく聞いておられたので、仏教のありがたさをお知りになり、大きな願いと誓いを立てられて、仏師の鞍部鳥(または鞍造鳥)に命じて、銅と繍物の丈六像をそれぞれ一点ずつ造らさせた。十四年丙寅の四月に出来上がった二つの像を元興寺に安置され折に。太子は儀式を催され、先に立って導いた。その時、《銅製の》仏像の高さは、堂の戸の高さよりも大きかったので、堂には入れられなかった。そこで工匠たちは相談して、堂の戸を壊して入れようとしたが、鞍造鳥は優れた工匠であり、戸を壊さないで入れることができた。そこで法会を催したが、この夕べには寺のうえに五色の雲がかかって堂舎の甍を覆い、夜には丈六の仏が光明を放った。そのようなことが何回かあり、そのうちの一度は堂の外も照らした。


 極楽房(坊)については「前の方」で書いたというが、どこにそんな記述があったか?そして、また金堂の話になる。今度は建物についての描写で、組み物(柱の上で屋根の重みを受ける構造)の装飾に注目し、さらに全ての堂舎の礎石や瓦が他寺より優れていると、妙なところ褒めている。欽明天皇の時に百済からもたらされた弥勒像とは『日本書紀』巻第20、敏達天皇13年の項に見える、鹿深臣が百済から将来し、蘇我馬子が自宅の東に建てた仏殿に安置したという弥勒の石造のことか。この寺と言うのは平城京の元興寺のことか、藤原京の元興寺(飛鳥寺)を意味するのか、判然としないが、いずれにせよ、12世紀はこの像は行方不明になっていたようだ。

 鞍造鳥(鳥仏師)が大きな仏像を堂の戸を壊さずに入れたというのは『日本書紀』推古天皇14(606)4月の項に見える,有名な話だ。ただし『書紀』には瑞雲が現れ、仏像が光を放ったという話は出てこない。


《唐》招提寺

 額には唐招提寺とある。


 孝謙天皇の宸筆というこの額は現存する。「唐招」「提寺」と2行に分けて、楷書と行書の中間といった筆法で書かれている。

   招提と言うのは、もともとは寺のことだから、招提寺というと同じ意味の言葉をダブって使っていることになる。鑑真がこの寺を開いた時の呼び名は「唐律招提」であった。当時の人はそれを略して「唐寺」と呼び、後に「唐律招提」の「律」は略されたまま「招提」が復活して、奇妙ではあるが響きの良い寺号となった。

 

金堂

 五間四面。五間に戸がある。外側に蓮華模様が描かれている。本尊はる盧舎那仏の坐像だ。二体の脇侍は、左が丈六の釈迦の立像で、右が千手観音像である。この三尊像のうち、千手観音像は化人が造ったものだ。その化人の名は竹田佐古女だというが、別の説では竹田之阿古が造ったといっている。また別の説では、左の脇時は薬師如来であって、釈迦だというのは、とんでもない間違いだという。


 全く、どこを見てこの文を書いたのか――と言いたくなる。古代ギリシャの建築を想わせる列柱の壮麗さを誇る唐招提寺金堂は、今もむかしも7間4面に変わりは無い。しかも「五間に戸がある」というのだから、堂の南面は全て戸ということになる。確かに両脇1間ずつの連子窓の壁をを除いた5間は扉だ。真正面から離れて見ると、一面扉の連続と見えないこともない。そこで、柱の数を数えず5間とやってしまったかと、多分に無理筋の推測もしたくなるほどのエラーだ。後世の筆写した者の間違いの可能性もないともいえないのだが、そうと決める理由も材料もない。

 脇侍の千手観音は、神仏が人間の姿になって現れた「化人」の作だというが、化人にも姓名があったらしく、竹田さんというのだそうだ。

 本尊左の脇侍を、一度は釈迦と言いながら、後では「薬師である。釈迦などとはもっての外」と言う。この部分は他人の説の紹介だから、そうなると親通は本尊左の脇侍を釈迦だと思っていたことになる。この像は薬師如来のシンボルとも言える薬壷を持っていないから、誤解される可能性もある。しかし、金堂ができてから少なくとも350年は経っているのだから、一度は間違いが流布されることがあっても訂正され、正しい説が固定していただろうと思える。ただ、俗説では〈光背が薬壷になっている〉という。そういう説が生まれた背景には、誤解がかなり根強く広まっていたとも考えられる。


講堂。

 七間四面で、金堂の北にある。弥勒三尊は金銅の像だ。以下は寛仁二年(1018)のある人の巡礼記の記事だが「講堂を開いて拝見したとき、あるお坊さんが語るには〈この弥勒三尊は、もとは高田寺の仏だった。脇侍の大妙相菩薩が、むかし盗賊に盗まれて融かされそうになったとき、この像が“痛い、痛い”と大声で叫んだので、盗人は捨てて逃げ去った。右肘の天衣などは木で補修した。高田寺が衰退した後、この堂にお移ししたのが、この像だ〉」そうだ。


 この建物も9間4面の誤り。両端の2間ずつが連子窓。本尊の弥勒如来像は金銅だとしている。金銅仏なら、火災にでもあわない限り、現代まで伝わっていそうなものだが、どうしたわけか現在の像は鎌倉時代の木造だ。親通が見た金銅像も元来は高田寺のものだったと、先人の見聞記を引用しているが、高田寺とはどこのどんな寺か不明。奈良周辺では北の隣接都市、京都府木津川市に奈良時代創立と伝えられる高田寺があるが、果たしてそれか。親通の記述からすれば、金銅弥勒像は人為的に壊されたか、誰かに持ち去られたv可能性も考えられる。

  この堂は、平城京の朝集殿だったとされる。儀式に参加する百官が集まった建物だ。江戸時代に藤()貞幹(173297)が自著『好古小録』で、金堂が朝集殿だという説を唱えたが、現在は否定されている。

   

羂索堂

 不空羂索観音の像と、商伽羅王の像がある。

 古い記録では、かつて唐招提寺と東大寺とで揉め事があった時、商伽羅王は東大寺に出向いて、杵で大湯屋の釜の底を突き破った。このため唐招提寺側が勝てた。その釜は今でも東大寺の大湯屋にあるという。先年(嘉承元年)私が巡礼した時には、この《羂索》堂を拝見しなかった。その時は堂舎が転倒して、実態がないと思っていたものだろう。旧跡を訪ねてみるべきだ。(寛仁二年の定心阿闍梨の巡礼記に書かれている)


    現在は無いこの堂は『招提千歳伝記』という江戸時代の記録によると「中世に倒れて再興できなかった。遺跡は影堂の向い、東室の北」というから、現在は松尾芭蕉が鑑真の像(後出)を見て作った

若葉して 御目の雫 ぬぐわばや

の句碑がある場所の辺りにあったらしい。親通が尋ねたときにはもうなかったようだ。しかし、江戸時代にできた『和州旧跡幽考』にも『大和名所図会』にも名前は出て来る。

 東大寺との“揉め事”の際に活躍した商伽羅王とはあまり聞かない名前だが『元亨釈書』(新訂増補・国史大系31)には「金色の不空羂索像并びに八部衆を安んず」(原文は漢文)とあるから、八部衆のいずれかを指したものか。大釜の底を抜いて勝利を収めたというのは、大敵に向い武力衝突を避けたゲリラ的戦術の成果ということだろう。

  ※八部衆=早稲田大学図書館増の筆写本『和州旧跡幽考』には「不空羂索像廾八部衆をそへ(添え)」とある。これは『元亨釈書』の〈并=ならびに〉を〈廾=二十〉と取り違えたものか?


宝蔵一棟

 金銅の東にある。鑑真和上が外国から持って来た三十六粒の釈迦の骨を納めた白瑠璃の壷が、銅塔内に安置されていて、その塔の壁は唐草模様の透かし彫りになっている。亀の形をした基盤の上に、蓮の葉の格好の台を置き、その上に塔を載せている。勅封がしてあるので、塔は開かれることがない。ただ、瑠璃が透明なので《仏骨を》拝見できる。また、太刀がある。長さは三尺=(90a)ぐらいで、幅は一寸五分(4.5a)だ。この太刀は、恵美(押勝)大臣の愛刀だったといわれる。現在も損傷がなく、抜けば鏡のように光輝く。言い伝えでは、《押勝が鑑真》和上に帰依したしるしに捧げたものだという。金線を柄に巻付けた様子は、藤蔓が絡まったようだ。ただ、鍔と足がない。


 鑑真和上が将来したという仏舎利は、現在は鎌倉時代の建築物「鼓楼」弐収められている。このため、この建物は「舎利殿」とも呼ばれている。舎利を納入した「金亀舎利塔」の記述は現物と相違ない。和上が来日のため航海中に海が荒れた際に、舎利は波にさらわれたが、亀が甲羅に載せて浮き上がってきたという伝説にちなむ。しかし、それならこの容器は和上来日後に日本で作られたといことになるが、これは唐の製品で、形態から伝説を“でっち上げた”ということだ。舎利の数を3,000粒などとしている紹介・解説文もあるが、そんなに入るわけはない。そして36粒がいつの間に“大量水増し”されたのだろう。

 恵美押勝と鑑真の関係はどんなものだったかはよく分からないが、僧侶に太刀を贈るというのは、どういうことか?


影堂一棟

 三間一面で瓦葺き。金堂から七、八段(11b)離れたところにある。鑑真和上の木像が安置されている。その右には如宝大僧都の絵像、左には義静僧正の絵像がある。この堂は、金堂の西北にある。絵像の二人はどちらも、鑑真和上の弟子である。


 かつて金堂・講堂の西側には、南北に伸びる建物「西室」があり、その北にあった「開山堂」が該当する。江戸時代までは存在し『大和名所図会』には西室と共に描かれている。「影堂」は「御影堂」(みえいどう)の事で、本邦古代肖像彫刻の最高傑作と言われる、乾漆の鑑真和上の像(御影)が安置されていた。御影はその後、現在「本願堂」と呼ばれる旧開山堂に移され、現在はかつての興福寺一条院の建物で、奈良地方裁判所として使われたこともある建物を移築した「開山堂」に収まっている。

 鑑真は天平宝字7年(763)の春ごろから健康が優れなかったが、忍基という弟子の僧が、寺の講堂の梁が折れた夢を見て、和上の死の前兆だと覚り、面影を伝えようと、弟子たちを動員作ったもの。この話は次の項に出て来る。。

 如宝・義静は共に鑑真に従って唐から渡来した僧で、鑑真の没後も戒律を広めた。


醍醐味の泉。

 《回りに》筒が立ててある

 御影堂の東方、二段(3.6b)ほど離れた所に三間の屋舎があり、その中に泉がある。筒を立てている。鑑真和上が渡来した時、身につけてきた醍醐味をこの泉の中に投げ入れ、誓願してこう言った。

 「この水を飲む者は、仏法のありがたさを知り、必ずこの上なく清々しい境地に到るだろう」

 この泉の水は、減ったり増えたりすることがない。筒の高さは一尺(30a)しかないが、水が(一定以上に)増えないので、あふれ出ない。毎年五月六日の和尚の忌日には、この屋舎を開いて水を汲み、《集まった》全ての人々に施す。長雨でも旱魃でも、水量に増減がないのは、全く不思議なことと言うしかない。また、長い間汲まなくても臭ったりしない。心がけが正しく行いの秀でた人の利益がもたらす不思議な事象だ。

 ある人はこう語る。

 「寺の人々が水を汲んで、時には浴用にすることがあるが、その際の入浴の作法は、今でも廃れておらず昔のままだ。ただ、輔精己講の時、その水を汲んで馬を洗った奴がいたため、水の色はたちまち血のようになってしまった。驚いて七日間、定められたとおりに仁王経の行をおこなったら、もとのように清らかになった」。

 ある書物では、鑑真和上は第二段階の菩薩の境地に達した人であるという。大唐の大福光寺で大衆のために説法をしていた時、自分から宣言して常と違った相貌をあらわした。それは目が三つ手が六本の不空羂索観音の姿であった。


 この井戸は現在は見られないが『大和名所図会』には、親通が示した場所に描かれている。

 醍醐の本来の意味は、牛や羊の乳を精製した最高の味わいを持つ飲料のことだが、転じて仏教の最高の教えを意味するようになり、現在では“滅多に味わえない真の面白さ”の意味で使われている。

 鑑真が井戸に投じたという「醍醐味」は果たして乳製品だっただろうか。鑑真が日本以着いたのは、天平勝宝5(753)11月に唐を出発して、平城宮に入ったのが翌年の2月だから、乳製品も腐敗はしなかったかも知れないが、それが混じった水を飲めば仏果が得られるというのはイージーに過ぎる。恐らくは鑑真と寺の“ありがたさ”をPRするために作られた伝説だろうが、醍醐がとても貴重なものだったことをうかがわせる。京都・醍醐寺の名の由来は、ここで「醍醐水」の霊泉を見出したからだと言うう。

 水は気象にかかわらず不増不減だとか。このような井戸(泉)の伝説は全国各地にあるが、馬を洗って水が穢れたというのは、あまり類例を見ない。これは多分、不増不減が鑑真の“法力”を示す伝説であるのに対し、水の汚染防止のためにできた(作った)伝説ではなかろうか。 


 (鑑真)和上伝には、次のように書かれている。廃帝(淳仁天皇)の御世の天平宝字七年(763)の春に、和尚の弟子の忍基は(唐招提寺の)講堂の棟木や梁が折れる夢を見た。表には出さなかったが驚いて、和尚が亡くなられる前兆であると知った。そこで、諸々の弟子を率いて和上の肖像を作った。この年の五月六日戊申に、《和上は》西を向いて結跏趺坐して亡くなられた。七十七歳であった。亡くなられてから三日と言うものは、頭のてっぺんには温かみが残っていたので、葬儀をしなかった。火葬したらよい香りが寺域に満ちた。和上は生前、いつも思託

 「私が死んだら、お前は私のために戒壇院の中に影堂を建てて、それまで住んでいた住房は、誰か僧に与えて住まわせなさい」

と言っていたという。

 私(親通)が知るところでは、『千臂経』には「臨終に際して、静かに座って心が安定した状態になるのは、その人が既に仏になる第一段階を入っている」と言っている。


  話はいきなり鑑真の入寂伝説になる。行年77歳だったというが、数え年76歳が正しい(安藤更生『鑑真』1963年、美術出版社刊)。

 『千臂経』は正しくは『千眼千臂観世音陀羅尼神咒経』という。菩薩も仏になるには修行によって10の段階を経なければならず、その第1段階がを「初地の験」というが、鑑真はその境地に達していたというのだ。

  ※思託=中国人で、鑑真の弟子で共に来日、戒律の普及や唐招提寺の建率に尽力した。鑑真の伝記や、日本初の僧の伝記集『延暦僧録』を著した。



阿弥陀院

 本尊は金色の阿弥陀(如来)

 この堂は、金堂の西南にある。如宝大僧都の弟子豊安僧正が建立した。たいしたものではないが仏がおられるので、記録しておく。


 この堂は『和州旧跡幽考』に名前は見えるが、実体は記されていない。『大和名所図会』には名すら見当たらない。『幽考』の記事も『縁起』によるとして、同寺の中興開山の墓所として紹介している。しかし、この縁起というのが正体不明だ。豊安は鑑真の孫弟子で唐招提寺初の日本人住職であるが、承和2年(835)が『招提本源流記』という文書を著し、これが『招提建立縁起』となったが、中興開山とは覚盛(11931249)のことであり、この『縁起』の原本とされる『招提本源流記』に書かれるはずがない。醍醐寺本や菅家本の『諸寺縁起集』にも出てこない。

 元禄時代にまとめられた『招提千歳伝記』という記録に、は「弥陀堂」という項があり「桓武天皇勅して斯の殿を立つ。東西南北五間なり。七宝を以って之を厳る。而して百済国自(よ)り南来の所の弥陀三尊を安んず(以下略)」とあるが、この堂のことだろうか。そして「中世に絶滅し、今は唯小殿有るのみ」としている。

   

 唐招提寺のあらましは、以上のようなものだ。そもそもこの寺は、七大寺の中には入っていないが、薬師寺に詣でる途中、道すがらにあるので拝見したのだ。鑑真和上が天平宝字三年(759)八月三日、感神(聖武)天皇のために建立された。和上は《唐の》揚州江陽県の人で、出家する以前の俗姓は淳于で、斉の高官だった●(髪の下部が几=こん)の子孫である。十四歳で大雲寺の智満師について出家し、大雲寺に住んだ。この寺は後に龍興寺と改名された。和上は日本に渡来したが、その肖像は龍興寺にもある。中国には各州ごとに龍興寺があるが、ここでいうのは揚州の龍興寺だ。慈覚大師の『入唐求法巡礼記』に書かれている。

 また古老の言い伝えがある。和上が聖武天皇の要請で戒律を広めるため、日本にやって来た時、まず難波の津に到着し、それから生駒山を越えて奈良に向った。その途中で何度も土を掬っては、匂いを嗅いだが、その度ごとにがっかりされた様子だった。《現在の》唐招提寺の西、薬師寺の北方にまで来て、また土を取り匂いを嗅ぎ、大変満足そうににっこりした。弟子が訳を尋ねると和上は

 「(ここまで来る道中で)仏縁のある土地を探してみたが、全くその気配がなかった。ところが、こここそ戒律を伝えるべき土地だったので、うれしくなって自然に笑ってしまったのだ」

と答えた。

 そのような故事から、その場所を〈恵美=えみ=の辻〉と呼ぶようになり、その名は今でも変わっていない。そしてその東側に唐招提寺は建てられ、人々を仏教に帰依させ十戒を守らさせた。

 またある記事では、《寺の始まりにあたって》炬火(たいまつ)を燃やして、方々の人を招き、集まった人たちすべてを十分にもてなした。だから招提寺というのだそうだ。


 唐招提寺は、奈良時代の古寺の中では“後発”の方である。しかも官寺ではないから「十大寺」というなら入ったかもしれないが「七」となると入りようがない。しかし、親通は“捨てがたい”として、薬師寺へ行く途中に寄ったことにして、記録している。確かに唐招提寺は薬師寺の真北約800bしか離れていない。親通がどんな行程で七大寺をめぐったかは分からないが、各寺の巡礼の順番はアットランダムであったにしても、唐招提寺と薬師寺は同日に、しかも薬師寺に先立って唐招提寺を訪れたことが分かる。

 鑑真の出自が語られ、高僧に良くある“神秘”物語が紹介されるが、「恵美の辻」とはどこを指すのかは不明。また「招提」を招待と取り違えたような伝説があったようだ。もっとも招提には〈四方〉という意味があるから、鑑真を慕う人々が四方から集まることをイメージして、こんな話が生ませたのかも知れない。

 ※十戒=仏教徒として守らなくてはならない五つの決まり(五戒=殺さない。盗まない、邪淫をしない、嘘をつかない、酒をのまない)に加えて、出家したものの戒律として@正午以後は食事をしないA財産をためないB装身具を見に付けないC歌舞音曲を見聞きしないDベッドで寝ない――を加えた十か条の禁制。


『唐大和上東征伝』の記事

 《寺ができて》次第に戒律を学ぼうとする人が集まるようになったが、《寺にはどこからも》財政の援助がないので、たいていは途中で学業をやめて、散って行った。この事は自然に広く知られるようになり、天皇のお耳に達した。そして天平宝字元年丁酉(757)十一月二十三日、勅で備前国の水田一百町が寄付された。和上はこの水田からの収入で、伽藍を建立しようと考えたところ、再度勅があって大和国に一区画の敷地を寄付された。これは亡くなられた一品・新田部親王の屋敷跡である。普照や思託らは和上に

 「この土地に伽藍を建て、末永く四分律※を伝えましょう」

と申し上げた。和上は大変喜ばれ、天平宝字三年(759)八月一日、私的に唐律招提の名を掲げ、後に寺の名として公認を要請した。(いまでも)「唐律招提」とも言うのはこれによっている。和上は中納言従三位氷上真人の願いをいれて、彼の宅地へ行き密かに土を舐めてみて、寺を建てるべき土地であることを知った。そこで弟子の僧に

 「この土地は仏縁のある土地だから」

と、伽藍を建てるよう言った。そこは現在、寺になっている。先見の明と言うべきだ。


 『唐大和上東征伝』は宝亀10年(776)に、淡海三船(722785)が著し鑑真の年代記的な伝記。ここでは、鑑真が高齢のため宗教行政の場からはなれ、教学に専念するようになって唐招提寺が形を整えてゆく経緯が語られている。新田部親王(?〜735)は天武天皇の子で、氷上真人(?〜764)はのその子。真人は皇位継承問題など政争に巻き込まれてたりして、投獄・配流されたり、皇太子候補に挙げられたりするなどの波乱の人生を送り、天平宝字2年(758)に臣籍降下し氷上姓となった。その後、参議・中納言となったが、最後は「藤原仲麻呂の乱」に関連して殺された、


薬師寺

金堂

 五間四面で瓦葺き。屋根は二重で、それぞれに裳層(もこし)がある。だから、外観は四重屋根だ。各層に木絵がある。垂木の先端は、みな金の鐺(こじり)で飾られている。

 本尊は、金銅の丈六の薬師如来で、須弥座に載っている。光背には浮き彫りの七仏薬師がいる。また、光背の縁には、飛天十九体が彫られていて、炎の形をしている部分には宝塔が取り付けられている。その塔の上には三本の九輪が立てられている。とても珍しいものだ。《どういうものなのか》詳しい事は調べてみなければならない。

 脇侍は金銅の日光・月光菩薩の像。以上の三尊は言い伝えでは持統天皇がお造りになったのだという。


 1976年に再建された現今堂は9間6面であり、平安時代よりかなり大ぶりになったが、重層で、それぞれの屋根に裳階がついていたのは、古式に則っている。ただし、垂木の先端に金の鐺はついていないし、彩色された木のモザイク模様(木絵)もないから、豪華さの点では引けを取っているようだ。このような裳階つき重層建築様式を「竜宮様」と称し、垂永という僧が仮死状態になって見た竜宮上の建物の姿を真似たという伝説があり、親通も『七大寺日記』ではその事に触れているが『私記』ではノータッチだ。

 本尊は日本彫刻史上の大傑作とされる銅造・薬師如来坐像は,脇侍の日光・月光両菩薩ともども建在だが光背は残っていない。文によれば本尊に劣らず立派なものだったようだ。親通は大安寺金堂の丈六釈迦如来像を稽主勲ら名工の作として最高の優作のように書いているが、その光背をも立派なものだったに違いない。そして、こちらの光背も熱がこもった書き方だ。勝るとも劣らないものだったかも知れないが、享禄元年(1529)に、地域豪族の闘争に夜兵火で焼失した。

 その後で、本尊の薬師三尊に触れ「持統天皇がお造りになった」という。薬師寺は堂舎・仏像とも藤原宮からの移築説があったが、平安時代末期には移築説が主流だったことが分かる。月光菩薩は1952年に地震の影響※で、首に入っていた亀裂が大きくなり、調査に来た文化財保護委員会の技官が頭部の転落を防ぐを理由に“独断”で、胴体の内部を貫通していた鉄芯を切断し「首切り事件」として、国会の問題にまでなる事件があった。

 この三尊の製作年代は飛鳥時代と奈良時代の移行期、いわゆる“白鳳時代”の代表作例作と考えられもするが、確実なことは分かっていない。

  ※移築説710年に都が飛鳥の藤原京から平城京に遷った歳に、本薬師寺の堂塔などは解体され、現在地で再建された

という説。移築か僧でないかは、建物や仏像の様式の年代を決める基準になるため、論議が繰り返されたが、現在では移築説が決定的とされる

  ※地震の影響=後に、像は地震には影響されなかった、ということになった。

  ※首きり事件=昭和2784日付毎日新聞夕刊2版(早版)に「首が離れた月光菩薩」という2段見出しで報じられたのを皮切りに、翌日の朝日新聞は奈良版で、吉野地震(718日に起こった奈良県中部を震源地とするM7クラスの直下型地震。住宅の被害は少なかったが、9人の死者と130余人の負傷者が出た)の続報として「月光菩薩も破損」という記事を載せている。そして94日朝日新聞夕刊には「薬師寺の〈月光菩薩〉に大修理」と報じ、頭から胴にかけて縄をめぐらし、頭部を“固定” している写真をが添えられている。しかし、この時点で首は倉田らの“独断”で、心棒を切断されて胴体から離れ、本堂内に転がされていた(同記事)。この“首切り”は10月になって、文化財保護委員会専門審議会委員の絵画彫刻部会長で東京芸術大学学長の上野直昭が「(修復技術に)素人の独断で切断」したことを非難し、問題化した。結局は、1954年に樹脂系接着剤アラルダイトで継ぎ合わされた。


 十二神将の像 高さは七尺五寸(2.2b)。これは昔の別当の弘耀大僧都の作だ。

 ある記録では、行基菩薩が自身の本尊にしていた文殊(菩薩の像)がここにあるという。調べてみよう。


 薬師如来の眷属の十二神将が本尊を取り囲んでいたが、高さは75寸あった。単独像なら、そこそこ大きな像だが、本尊が坐像で2.54b、脇侍(立像)が3.157bだから、さして大きく見えなかっただろう。行基が所持していた文殊菩薩像については、当時あった単なる伝説だろう。

 仏壇一基 奥行きは一丈六尺(4.8b)、幅は三丈三尺(10b)で、高さは一尺八寸(55a)ある。

 金銅の五重塔一基。高さは約三尺(90a)。金堂内の南西の隅にある。この塔の中に、金銅の六角の台がある。高さは二寸(6a)で一辺の長さは七寸(21a)で、その上に金銅の壷が置かれている。壷の高さは三寸(9a)周りの長さは一尺五寸(45a)だ。その壷の中には(無色)ガラスの壷があり、仏舎利三粒が収められている。大きさは小豆ぐらいで、みな白い色をしている。保延六年(1110)三月十五日に、初めて拝見した。嘉承六年に巡礼した時は、舎利を拝むこともなかったし、この塔もなかった。どうしたわけか事情を調べようと思っていたところ、堂童子が教えてくれた。嘉保二年(1095)十月ごろのことだが、この寺の事務の管理職の僧が、土地についての調査をするため、本薬師寺へ出かけ、小屋に泊まって夢を見た。その夢の詳しいことは別に記録がある。夢から覚めてその夢の次第を当寺の別当に詳しく報告した。同年の十一月三日に、忠能ら薬師寺の僧十人を、本薬師寺の塔の跡に派遣して(調べさせたところ)、心柱の礎石の中から(舎利を)掘り出した。その後、別当法眼がこの舎利を納めるために、般若寺の別当に掛け合って、その寺の持っていた塔を譲り受け、安置したのだ。その般若寺は、片岡寺とも言うそうだ。

 ある人の巡礼記に、こんな話がある。薬師寺の東門の近くに一人の尼が住んでいた。長元年間(102837)から、大豆一合で数珠を作り、念仏を称えているうちに、その大豆の数粒が突然変化して、釈迦の舎利になったという。この話を聞いて、康平七年(1064)九月十五日に、(奈良に)修行に出かけた序でに、薬師寺に参詣し、その尼さんの住処を訪ねて、仏縁を結ぶため一ヶ月間、寄宿させてもらおうと思ったが、尼さんに差し障りがあったので、やむを得ず泊まれなかったとか。舎利の件は調べてみたい。


 仏壇とは、現在も本尊が鎮座する青龍・朱雀・白虎・玄武の四方四神や“蕃人”或いは想像上鬼神の像を鋳出した裳懸坐(もかけざ)と脇侍を載せていたものだろう。高さは55センチだというから『日記』に「瑪瑙を以って壇と為し」とあるものに相当すると思われる。仏舎利を納めた五重小塔は、前回の巡礼以後に寺に入ったものだが、これにも夢物語という“神秘譚”が絡んでいる。しかし、その夢物語がどんなものかは「別に記録がある」で片付けている。『私記』が世に出たとしても、薬師寺の記録を読むことができる人など滅多にいないのだから、荒筋だけでも記録しておけばよかったのに……。大体、この紀行文は、他人が読むのを意識していたようだ。それだからこそ序文で、自分の意見など他人には役立たないと、見事な見識を見せているが、その割には記述は“不親切”な場合がかなりある。これもその大きな一例だ。納めた舎利は、藤原京にあった薬師寺(本薬師寺)の塔の心礎で見つけたというのだが、12世紀初頭には、本薬師寺の塔は跡形もなかったわけだ。いつ塔が消滅したのかは分からないが、良くぞ仏舎利が無事であったことだ。仏塔の心礎に仏舎利や宝物が埋められることは常識だから、塔が消えたとなると早速に“宝探し”が行なわれ多のではないかと思われるが、後世になって夢物語から発見されたとなると、またしてもの寺の箔付けのための作り話みたいに思える。舎利を納めるに、寺には適当な器がなかったのだろう、般若寺に掛け合って金銅の塔を譲り受けた。そのため、掛け合ったというが、平和的に談合が行なわれたかどうかは、親通も保証の限りではないだろう。その般若寺は片岡寺とも言うとの事で、奈良坂にある般若寺ではない。候補には奈良県香芝市尼寺にある般若院が考えられる。この寺は6世紀に敏達天皇の一族である茅淳王が建立した般若寺(片岡寺)の後身と伝えられる。近くに尼寺北廃寺跡があり、1996年には日本一大きいといわれる塔の心礎が発見されている。

 この舎利の話はまだしも受け入れられる性質のものだが、念誦にする大豆が仏舎利に変化したということになると全くの荒唐無稽で、余程信心深い人でない限り、信じるものはいなかっただろう。

 大豆の持ち主である尼のもとへ“仏縁”を結ぼうと押しかけた奴がいたとなると、最早何をか言わん哉だ。そして「舎利の件は調べてみたい」という親通は、何を調べようというのか?

無色=恐らく白色の半透明のことだろう。当時、着色のガラスはあったが、透明(無色)のガラスがあったとは思われない。

  ※裳掛座=仏像の衣服が前面に垂れ下がったような形式の台座。


 この寺は、天淳中原瀛真人天皇(天武天皇とお呼びする)の九年庚辰(680)十月、皇后が病気になられ、天皇が《病気平癒の》願をかけ創建し、百人を出家させ、大赦を行った。

 また古老の言い伝えでは、天武天皇が皇后の病気になったので、発願して建立したのだが、その際に承永和尚が皇后の意向を受け入定して、竜宮を見て建物の様式を学んだのだという。それだけのことはあって、厳かな飾りの美しさ、技術の巧みさは、他のどんな寺よりも勝っている。仏壇は瑠璃を敷き詰め、黄金で区切りが示されている。壇の垂れ飾りは瑪瑙でできていて、欄干は蘇芳で染められている(高さは一尺八寸=54a)。内陣の天井には紫檀が使われていて、天蓋があり鉄の綱で吊るしている。その天蓋は四面が切り立っていて、きらきら光る。さまざまな色の貴金属や貴石をレース状の網になっている。大安寺の釈迦像を除いては、この寺の仏像や装飾は他の寺より優れている。

 ある人が語るには、この寺には力が強くて機敏な老人がいて、万灯会の時に手に灯りを捧げ持ち、《万灯の》幢に登って鳥のように飛んだ。そこで、寺では手当を支給したとかいう。

 また別の語り伝えでは、この老人は聖の姿を替えた者で、超能力で寺の行事の手助けをしようと、現れたのだと言っている。

 さらに古老が言い伝えるところでは、治安三年(1023)十月ごろ、大相国入道殿下(藤原道長)が修行なさる序でに、この寺に参詣された。そして言われるには

 「聞くところでは、《この堂には》堂童子しか入れないとかいうが、自分は前世で正しい行いをしたので、現世では大臣になって摂政・関白まで務めた者だ。権勢になびかぬ者はおらぬ。そして、歳を取ってからは、俗人の着る服を脱ぎ捨てて、一心に仏教を信仰している。だから、堂の中で心行くまま礼拝しよう」

と、立ち上がって門まで進むと、にわかに猛烈な風が吹きつけ、門の扉を吹き閉じてしまった。それで恐ろしくなって、引き返してしまった。これは、つまるところ薬師如来の御威力によるものである。しかし『御巡礼記』には、一向にこの寺に参詣されたことには触れていない。実に疑わしいことだ。調べてみなければなるまい。


 この寺の起源(本薬師寺=もとやくしじ)についての話が語られる。建立の理由は天武天皇の皇后(後の持統天皇)が病気になった際に、平癒を祈ったもの。塔の相輪の擦の銘文に由来が刻まれている。ただし『日本書紀』の記事との間に、年代のずれがある。1792年に幕府――と言うより多分は松平定信の下命で京・大和の古社寺の“お宝調査団”に参加した輪池・屋代弘賢も実際に擦銘を見て、発願年代の違いに疑問を呈しているが、銘文が作られた時期と日本書紀が編纂された時代にはずれがあり、それぞれの時代にそれぞれの事情があったのだろうという“ある人”の説明に、簡単に納得している。

 建物の形式について、竜宮様の伝説が紹介されているが、竜宮を見た僧の名が「承永」になっている。入定と言うのは、精神を統一して一種の夢幻状態に陥ったものだろう。仏座の基壇や各種の装飾の豪華さが述べられているが、金堂は天元2年(979)には火災に愛、永祚元年(989)に大風で破損しているなどしているから、基壇はともかくして装飾が記述どおりだったかは疑わしい。それは垂木の先端の金の鐺も同様だ。

 そして「古老の言い伝えるところ」として、他愛のない話を収録している。超能力老人の話は実在した力持ちの行状が誇張されて伝説になったものかと思われる。一方、藤原道長の話は、同じ法相宗でありながら、藤原氏の後ろ盾で宗教界に権勢を誇る興福寺に対し、官寺だとは言え衰退の兆しを見せていたであろう薬師寺がねたみの気持ちから、藤原氏の第一人者に抵抗して、あれこれ“難癖”をつけて金堂への入堂を拒んだのではないだろうか。道長にしては面目を潰されたのだから『御順礼記』に書くはずがない。それを不思議がる親通も、どうかと思われる。

 ※入定=高僧が死去すること。

=装飾の垂衣(たれぎぬ)を下げた「はたほこ」だが、この場合はそれを吊るした竿だと思われる。

  ※擦=塔の相隣の軸の部分。従来、銘文は露盤(相輪の基礎部分)にあるように伝えられていたが、擦とするのが正しい。

  ※蘇芳=マメ科の植物から取れる赤色の染料。


東西二基の塔

 高さは十一丈五尺(35b)、間口は二丈五尺(7.6b)

 それぞれ三層で、層ごとに裳層がある。表の柱の流星の下には、すべて蓮華座がある。他の寺(の塔)とは様子が違っている。東塔には(仏伝の)入胎・受生・受楽・苦行の場面を、西塔には成道・転法輪・涅槃・分舎利の場面が表されている。

 この二つの塔の中にある、八つの仏伝の表現は見慣れないものだ。山や谷の険しい様子、岩や洞窟や曲がりくねった道の格好など、すべて風変わりだ。保延六年三月十五日に再び巡礼※したところ、西塔にあった涅槃像※の枕がなくなっていた。それ故、(釈迦)如来は首を持ち上げて、起き上がろうとするポーズになっている。その枕は珍しい瑪瑙でできていたという。この像の右肘を引いて身体に添え、突き出そうとしている姿勢は、何と言う経典に基づいて造られたのだろうか。大変おかしなものである。


 現在も東西両塔が立っているが、奈良時代の創建以来の西塔は戦国時代に兵火で焼失し、1981年に再建されたもの。親通の時代には共に健在だった。高さは35bとしているが、実際は3層の屋根の頂点までは34.133bで、その上に10.341bの相輪が載っている。

 塔は東西共に三層で、層ごとに裳階があるとしているのはさすがである。後代になると6層の塔と誤解するものが多くなった。『大和名所図会』の著者も、屋代弘賢もその一人だ。

 塔内には、釈迦の生涯の出来事を表現した塑像があった。東西の塔の心柱を囲んで東西南北だから8面で、釈迦の誕生から分舎利までの、重要な事蹟はほとんど網羅できる。法隆寺の五重塔にも同じようなものがあるが、釈迦に直接関係した場面は入寂と分舎利の2場面だけだ。山や谷、洞窟や道が表現されていたようだが、全て風変わりだというのが親通の感想だ、“風変わり”と言うことは、他の寺にも同じような塑壁があり、それらとは様子や作り方が違うということだろう。現在の東塔には心柱を囲んで木造の四天王と小仏像があるばかり。江戸初期に修理された時に消えたものか。

 親通はこのたびの巡礼で、涅槃の釈迦の“不可思議な瑪瑙”で作った枕がなくなっているという発見をしている。前回の巡礼の時にはあったそうでだった。そこで、釈迦が起き上がりかけたようなポーズだとしているが、そもそものポーズが奇妙だといい、根拠には仏典か儀軌にないポーズだと考えているようだ。像の作者のアイデアや感性による造形ということは、念頭になかっただろう。

 “不思議の瑪瑙”というのは、よく分からない表現だが、見たことのない色とか模様のことを言っているのか。親通は、自分の経験しなかったり理解の及ばない事物は、全て“不思議”で片付ける癖があるようだ。

 ※流星=建物のどの部分を指すのか不明。下に蓮華坐臥あるというから、屋根の荷重を支える部品か。

  ※風変わり=原文では「不可思議」。親通の「不可思議」は、意味するところを理解しにくいが、ここでは「風変わり」としておく。

 ※重要な事蹟=受胎・誕生・出家・苦行・成道・転宝輪・涅槃・分舎利など。

 ※塑壁=塑土で立体的に、情景を表現したもの。


六角の金銅製灯篭一基

 高さは一丈二尺(3.6b)ぐらい。一つの面の(観音開きの)扉の左右に、金剛力士の浮き彫りが鋳付けられている。他の五面の扉にも音楽を奏する菩薩が、同じように鋳付けられている。


 現在、金堂前に灯篭は立っていて、ここに記述されているように、音声菩薩がレリーで表出されている。これは1976年に金堂の新築完成に伴って建てられたもので。『大和名所図会』では描かれていないし、1970年岩波書店刊『奈良六大寺大観=薬師寺』に掲載の航空写真にも写っていない。音声菩薩の灯篭といえば東大寺大仏殿のものが有名だが、この方は八角で“ちょっと見”しただけでも薬師寺の現役とは貫禄・風格が違う――と親通が見たら言うだろう。


講堂一棟 

 七間四面で瓦葺き。裳層がある。高さは一丈三尺六寸(4.1b)、幅十二丈(38b)、奥行き五丈四尺五寸(16.5b)で、南の面に、扉がない。三尺(90a)の釈迦像を安置してある。この像は、当寺の別当が私的に造ったものだ。


 この堂も、現在の建物は西塔・金堂と同じく“復元建築” だが、21世紀(2003)になって完成した。規模は9間5面で、親通の見たものより大きくなっている。

 親通のいう“南面には扉がない”というのは、どういうことか。構造的に扉を設けなかったのか、何らかの理由で消滅し、そのままになっているのか。構造的にないとすれば、入堂するのは背面か側面だけというのも理解できないから、破損などで一時的になかったと解するほうが自然だ。西塔の涅槃の釈迦の枕も易々と盗まれるような、ほとんどノー・ガード状態だったかとも思われる。

 小さな像の存在は記録しているが、本尊は何だったか書かれていない。昭和中期までは薬師三尊とされ、現在は弥勒三尊と称されている本尊は、江戸時代に他所から移入されたものだが、平安後期から江戸時代中期にかけての講堂の様子についての記録はほとんど空白だ。


繍の曼荼羅 幅二丈一尺八寸(6.6b)、高さ三丈(9b)で、箱に納められている。この曼荼羅は、さまざまな色の糸で、阿弥陀三尊と菩薩や諸天など百余体を縫い取りしてある。朝廷が最勝会を催される時に公開される。他の日には拝見できない。


 同じ時期に東大寺大仏殿にあった不空羂索・観自在の両菩薩の繍仏よりは小さいが、かなり豪華なものだったようだ。阿弥陀三尊の曼荼羅だというから、恐らくは極楽世界を表現した、幾何学的な仏像配列によらない、いわば“絵画的”なものだったであろう。最勝会の時にしか見られないというのだから、当然、講堂の“備品”でも、保管は本坊とか宝蔵とかでされていただろう。してみると講堂内には小さな仏像が1体あっただけ?その曼荼羅も釈迦像も今はない。


金銅の六角灯篭一基 その扉のうち、五面にはそれぞれ天部の像がレリーフでとりつけられていて、南向き面の左右の扉は獅子である。どういうことなのだろうか。


 堂の前に立っていたのだろうが、扉に獅子が取り付けられているのを「どういうことだろうか」と、いぶかしがっているのが、その理由が分からない。灯篭の扉に音声菩薩に混じって獅子が、それも南面につけられるのは、東大寺大仏殿前の灯篭で承知しているはずで、改めて不思議に思う必要も無いだろう。或いは一面だけ、天部でないのがきにかかったのか?


 以上、講堂のあらましを述べた。この堂は天禄四年(973)二月二十七日に焼けてしまった。そこで同月の二十九日、朝廷のお沙汰で別当の珍全が、寺領の地に費用を割り当てたり、自ら寄付を集めたりして、天禄四年から貞元二年(977)にかけての、延べ六年で新改築した。詳しいことは日記に書かれている。ただし、天禄四年十二月二十日に改元されて、天延元年になった。天延三年(975)七月十三日には、また改元され貞元となり、さらに同三年(978))十一月二十九日に改元があり、天元になった。それならば、天元元年に完成したのだ。


 天禄4年に焼けて、同年早速再興を始め、貞元2年までの足かけ6年(原文では「并六箇年」)というが、それなら973年から977年の“足かけ5年”にしかならない。そう言っておいて、正当な足かけ6年は天元元年(978)ではないかと、疑問に事寄せた訂正をしている。

 どうしてこんなことになったかを推測すると「貞元2年までの足かけ6年」と言うのは、何か古文書の類の受け売りで、『私記』を書きながら“おかしいぞ”と気付いたので、このような文となったと思って間違いないだろう。親通は『私記』の中で、年数についての間違いをいくつか犯しているが、計算に弱かったのか。

  ※日記=どんなものか不明。寺伝の記録か。


食堂一棟

 九間四面で瓦葺き。本尊は高さ六尺ぐらいの阿弥陀如来の坐像で、脇侍は等身大だ。


 寺の食堂は、講堂の裏側にあった。東西に細長い建物だった。阿弥陀三尊については、本尊には触れず脇侍が等身大とだけいっているのは、奇異な感じがする。


唐院

 金堂の東にある。四天王の檀像(があって)高さは七寸(21a)

 この像の由来を探ってみれば、戒明和尚が仏教研究のため唐に渡る折に、海上で盗賊に襲われた。その時に願をかけ「もし、この危難を逃れられたら、四天王像を造ります」と誓いを立てた。願いは叶い、平穏に旅は続けられた。帰国してから、乗っていた船の梶で四天王像を造り、《ここに》安置したものだ。和尚が帰国して、ここに住んだので唐院と呼ぶようになった。


 戒明和尚は生没年不明だが、8世紀の華厳宗の僧。唐にわたったのは宝亀年間(77080)の事で、この頃の東シナ海は、すでに海賊が跳梁していた。空海も延暦23年に入唐した際、暴風雨に見舞われ、福州に漂着したが、海賊の嫌疑をかけられたという。戒明がどのようにして海賊の難を免れたかは明らかでないが、四天王の利益より金の利益のほうが大きかったのではないか?


東院

 八角形の宝形造り。丈六の釈迦像が置かれている。定朝が造ったものだ。

 この堂は唐院の側にあり、口伝ではこの寺の別当だった輔精が私的に建てたものだ。仏像は定朝に発注し、大安寺の釈迦釈迦像を写して造った。(それに貼る)金箔が手に入らないので、金峯山に参詣して一心にお祈りすると、その真夜中に一人の僧がやって来て、金の玉を輔精に投げ与えて「これでお前の望みを遂げよ」と告げた。夢のようであり、また幻のようであり、気分が高揚して喜びが体に充満した。袖を探ると現実に蜜柑の大きさの金の玉があった。お祈りに果報があり、感謝の気持ちは言葉にならず、嬉し涙で袖はびしょびしょになり、魂は宙に浮くようだった。玉を衣の袖に包んで持ち帰り、打ち伸ばして箔にしたが、台座に貼る分が足りなかった。弟子が、別にを買って全体に金を貼るのがよかろうと進言したが、輔精は

 「蔵王権現は、足りないのはちゃんとご存知だったのだろう。それならば、ほかの箔とまぜなどしたら、神様のご配慮を無視することになろう。台座などは黒くても構わないのじゃ。それに、こうしておけば、神がお助けくださったことを、後の世の人たちにも伝え、拝見する者は信心を深めることになるだろう」

と答えた。このようにして、台座には金箔を貼らずに百年ほどが過ぎた。そして大治年間(112631)ごろの信者は由来を理解せず、台座に金箔を押してしまった。事業は完成したと言えるかも知れないが、かえって間違いを犯したことになる。残念であり悲しいことだ。

以下は後世の加筆=建久(年間=119099)ごろになって(この仏像を)拝見したら、台座に箔は押されていない。この文は正しくない】


 現在、東院堂という国宝の建物が存在し、金堂の薬師三尊と並び称される「聖観音立像」が有名だが、それとは関係ない。定朝作の丈六釈迦像があったようだが、大安寺金堂の稽主勲らの作という釈迦像二倣った像だそうだが、当然木造で、金箔が貼られていたが、台座が黒だったというのは漆塗りだったようだ。その黒さを造像の願主はあえてそのままにして置いたのに、後世の半可通が踏みにじってしまった。見識も知識もないのに、自分の考えや行為が正当と考える奴は何時の時代でもいる。だから「手貝町」などという、意味も情緒もない地名が生まれる。しかし、それも時がたつと正当なものにされてしまう。杏仁豆腐(きょうにんとうふ)が「あんにんとうふ」と読まれ、マスコミまで追従する。世の中に「杏仁=あんにん」なる言葉は元来存在しない。杏仁はアーモンドの種のことで「アンズ」ではない。こんな奇妙な読み方がされるようになった“元凶”は森林太郎ではないか。自分の娘にAnneをもじった「アンヌ」という名を付けた際に、いっそカタカナにして置けばよいものを、アンを杏子(あんず)の杏にした。そこで後世の無学な連中が杏仁の杏もをアンと読むものと思い込んでしまったのだろう。飛鳥時代の仏像の目を「杏仁形=きょうにんけい」というが、それはアーモンドの形をしているからである。「あんにんけい」などと言えば、一体どんな形だというのか?そのうち杏林大学や杏林製薬はそれぞれ「あんりん大学」「あんりん製薬」と呼ばれるかもしれない。   

 後世の人間が、台座に金箔は貼られていないと、親通の文に意を唱えている。しかし、親通がこの仏を見ないで記述したのでなかったら、黒を金というはずはない。黒だというのは親通の時代から50年後だから、箔の置き方が粗末で剥げてしまっていたのかも知れない。

  ※杏をアンと読む=杏は唐音ではアンと発音するから「アンニン」でも間違いではないと強弁する者もいる。しかし、古来から昭和前期に至るまで、「杏仁」をアンニンと呼んだ例があるか?また、アンニンと呼ばなくてはならない必然性があのか?人によっては杏仁豆腐は元来アーモンドで作らなくてはならないのだが、アーモンドは値段が高いから澱粉粉で間に合わせ、アーモンドではないことの申し訳に“アンニン”というのだと、冗談とも付かぬ説を言う人もいるが、果たして保温とうだろうか?


 【底本は薬師寺と次項・法隆寺の間の間に、約二十行が欠落している。よって、「一、法隆寺。聖徳太子の御願で……」以降「素晴らしい、素晴らしい」までは、『七大寺日記』を引用した】


法隆寺

 聖徳太子の御願で、一般には鵤僧寺という。


 鵤(いかるが=斑鳩)僧寺というからには鵤尼寺もあったのだと思われるが、それは中宮(尼)寺と考えられる。法隆寺が一般に鵤(僧)寺と呼ばれていたというが、地名を寺号に結びつけた例は多く、法興寺が飛鳥寺、法輪寺(斑鳩町)が岡本寺、広隆寺(京都)が蜂岡と呼ばれ、山階(やましな)寺・厩坂寺(共に後の興福寺)のような地名が正式な寺号だった例もある。


金堂

 二重屋根の瓦葺きで、三間四面である。【写本で次の文との間に欠落させた部分があるか?】

 光背に銘文がある。聖徳太子が壬午の年(推古天皇三十年・622)に亡くなられたことが記されている。金銅製の釈迦三尊の中尊は等身大で、同じく等身大の四天王像がある。()天王寺金堂の像と寸分違わない。西の壁には、阿弥陀浄土の絵が描かれている。中尊は半丈六(の大きさ)に描かれ、東の壁には薬師浄土の絵の中尊も同じ大きさだ。南と北の壁にもそれぞれ仏や菩薩が描かれ、これらの絵はすべて鞍造部鳥の筆による。大変素晴らしい、素晴らしい。

 仏壇の北に、北面して二尺六寸(78a)の白檀で造った地蔵菩薩の立像がある。古老たちは、この像は伽羅陀山の地蔵菩薩が、自ら鉈をふるってお造りになったものだと言い伝える。小さな厨子の中に安置されているが、その厨子の中、地蔵像の東()脇に険しい山の形がある。これは一体何だろう。

 また堂内の東北の隅に、八弁の蓮華の形をした塗り物の壇がある。言い伝えでは、永興十禅師が観音の法を行おうとして、塗ったのだとか。別の説では、(聖徳)太子がその法を行わせられた壇なのだという。

 また錫杖があるが、柄の長さは約五尺(1.5b)で、聖徳太子の御持物だったといわれ、本尊の前にあって、壇の下に置かれている。

  

 二重屋根の瓦葺と言うのは正しいが、3間4面というのはおかしい。重層で下層は54面(柱の数が東西には6本、南北には5本。裳階がある)で、上層は43面だ。法隆寺は8世紀以降は火災にあってはいないし、親通の時代には聖徳太子創建時から一度も災害に会っていないという言い伝えが確立していたから、現在の金堂と別物であるはずがない。そして、正面が親通は、建物の柱間の記述には、しばしば錯誤が見られるが、正面の柱間が奥行きのそれより少ないのは異様で、この錯誤は甚だしい。実際は下層54面、上層43面で、下層の裳階は97面だ。

 そして話は、薬師三尊の光背の銘文のことになる。-写本に欠落があるかというのは、古写本には「金堂二蓋瓦葺三間四面」という文に引き続き、切れ目なしに「光背有銘文」とあり、記された銘文はどんな仏像のものかの記載がないからだ。法隆寺金堂には、本尊の釈迦三尊と客仏の薬師如来像と2種の飛鳥時代の金銅仏像ががあり、特に釈迦三尊は「鞍首止利」の作であることが刻まれていて有名だが、「壬午の年」の語句があるのはこの方だ。その原文は「法興元卅一年 歳次辛巳十二月 鬼前太后崩 明年正月廿日 上宮法皇枕病弗愈 干食王后 仍以勞疾 並着於床(以下略)」というもの。この「法興卅一年」という記紀には現れない私年号「法興」の31年の明年、つまり法興32年が西暦622年、干支では壬午になる。

 聖徳太子の没年を紹介した後に「金堂の釈迦三尊像、中尊は等身」という語句が来るのだが、これは「光背に銘文がある」の前に来るのが妥当だろう。薬師如来については、この時点ではまだ金堂になかったものか、全く触れられていない。

 四天王像は、大阪・四天王寺のものと同じ形態だというが、四天王寺の像がどんなものだったかは、平安時代末期に著された図像集『別尊雑記』で知られる。直立に近いポーズで、足下の邪鬼の格好も良く似ている。また、大阪府八尾市の大聖勝軍寺には、鎌倉時代の作だが、よく似たポーズの四天王像がある。

 そして、四面の壁画を「神妙、神妙」(須晴らしい、素晴らしい)と絶賛している。ただ、鞍造部鳥(止利)の作としたのは、寺伝の受け売りだろうが、止利が描いた根拠はない。

 “世界の至宝”とさえ言われたこの壁画も1949126日に不審火でやけてしまった。火災の原因は未だなぞで、事件直後には模写をしていた画家の電気座布団のスイッチの切り忘れによる過熱説などが噂されたが、関係者の間では責任者を曖昧のままにしようという空気が強く「同時代人の連帯責任だ」と新聞社説を書いた記者も現れた(竹田道太郎『美術記者30年』※1962年、朝日新聞社刊)。国民が文化財保護に関心が薄いことと、不審火の発生した責任とは話は別だ。敗戦に際して“一億総懺悔”などと、ぬけぬけと言い放った連中と選ぶところがない(なお、この社説を書いたのは名古屋の新聞社へ出向中だった竹田本人である)。

 聖徳太子の錫杖などが記されているが、現在も法隆寺には古代の錫杖が伝わっている。ただし奈良時代の製作で、太子の物ではない。もっとも、親通が見た錫杖がこれでないとも断言はできない。


 美術記者30=この書中で、著者は失火の責任を「自分一人で負いたい」と言った文部官僚がいたことを記して“潔い”と賞賛しているが、その官僚を褒めるのは“浪花節的”である。こうした責任の取り方は潔いように見えて、原因を分からずじまいにしてしまう、愚劣なやり方だ。なお、竹田は“浪花節的感性”の持ち主のようで、自分の考えに合ったり、気に入った人や事物に対しては甘く、そうでもない者に対しては厳しい傾向が見られる。


南大門 一棟

 四間二面で二重屋根。造り方が他の寺とは違っている。


 現存する奈良時代に造られた中門と、同じ形式だった。正面入り口に当たる面の柱間が4間と言うのは、通路の真ん中に柱が立っているということで、他に例を見ない。竹山道郎は「入る者を拒否する門」としている(『古都遍歴―奈良―』1954年新潮社刊)。つまり、中央の柱は人を入らせないシンボルだと言うわけだ。また、梅原猛は『隠された十字架』(1972年、新潮社刊)で「子孫を抹殺された聖徳太子の怨念を閉じ込めるための柱」と言う説を立てている。しかし、竹山の「入る者を拒む門」などという・非現実的な観念論は今では一顧もされないし、梅原の説も歴史や美術や考古学に疎い“素人”には大受けしたが、学界からは厳しい批判が寄せられた。致命的だったのは町田甲一が『大和古寺巡歴』(1976年、有信堂高文社刊、後に講談社学術文庫に加筆・収録された)で、梅原が実物の“写真”すら見ずに、夢殿の救世観音の背面に“空洞”があるとして、これは故意にあけたもので、怨霊としての聖徳太子を表現しようとしたものと考えた点を突かれたことである。小説や随筆ならともかく、歴史学にこのような杜撰な立論は許されるはずがなく、『隠された十字架』全体が否定的に受け止められるのは当然である。梅原本人も、後にこの著書を否定した

  ※この著書を否定1980年に加藤海運・陸運の企画で、朝日新聞高松支局主催で、四国の文化に関するシンポジウムが開かれ、その第3回に梅原は講師として招かれた。その時には、梅原はすでに何かの折に『隠された十字架』は“ないことにする”と公表していたので、シンポジウム関係者からその理由を問われたが、ただ「駄目なものは駄目」と言うのみだった。


講堂

 一棟六間四面で瓦葺き。

 丈六の薬師如来の坐像が安置されていて、これが本尊だ。もう一つ丈六の薬師如来坐像があるが、これは西円堂の仏像だったもので、その堂が壊れたので、ここにお移しした。伝説の言うところでは、橘夫人のご病気を治すため造ったのだそうで、大変な霊験があらたかだ。視覚・言語障害者が祈願すると、必ずご利益があるという。その他の病気については、言うまでもない。

 仏前の机の上には、竜自在王仏の坐像が置かれている。彩色像で、高さは二尺(60a)余り、形は童子のようで帽子をかぶり、首には青竜を巻きつけている。

 また、等身大の救世観音がある。この像は、本尊の左方にあって、左手に宝珠を乗せて、右手でその珠を覆っている。

 その他に、高さ六尺(1.8八b)ぐらいの四天王像があるが、たいしたことはない。


 正暦元年(990)に再建されたというこの堂には薬師如来が2体あった。一体は西院伽藍の西にある西円堂のものだったとしている。西円堂は光明皇后の母・橘三千代の発願で建立されたといい、現在は鎌倉時代再建の八角堂に「峯の薬師」と呼ばれる、日本最古の脱乾漆の薬師像が安置されている。この仏像は奈良時代のもので、西院円堂が壊れた時に一時的に大講堂に移され、親通が見たものであろう。親通は視聴覚・言語障害者(原文は盲聾瘖瘂)が祈れば利益があるとしているが、現在は耳の病気に霊験あらたかとして、錐を奉納する人が多いとか。

 「救世観音」は、東院・夢殿の本尊のほか、ここにもあったようだ。


一基 

 五重で瓦葺き。

 釈迦の成道・転法輪・入菩提の(場面を表わした)像が配置されている。どれも見事な出来栄えで、よくよく注意して見るべきだ。

 この塔の各層の軒先筒瓦の端には、金銅の宝珠形の飾りを取り付けている。しかし、三層より下の三層にはない。これは、年月が経って自然に失われたのだそうだ。また、第一の露盤の下から長さ約五尺(1.5b)の鎌を八方に立てている。古老が言うには「雷避けじゃ」。


 日本古建築のシンボルのような建物だが、親通の眼に先ずついたのは初層の四面の塑壁だった。そこで表現されているのは「釈迦の成道・転法輪・入菩提」としているが、成道はなく東面が維摩・文殊の問答、南が弥勒浄土、西が分舎利、北が涅槃だ。

 筒瓦は、筒を縦に割った格好をした、現代は牡瓦と呼ばれる瓦に似たもの。寺院や城郭などの軒先に置かれるものは、蓮華や巴や家紋などの模様が表出された円形の盤が付き、軒丸瓦と呼ばれる。この瓦に金銅の飾りがあると言うのだが、どんな様子だったか推測がつかない。現在、垂木の先端には唐草模様の飾りが見られるが、これのことか?

また、裳階の上の四隅に尾垂木を支えるように置かれた、鬼神形の象については何も言っていないが、気が付かなかったのか。これは漢代に流行した器物の脚である「熊脚」(中国では「熊足」)の変形だろう。

相輪に鎌があるのは、現在も変わりない。しかし「第一の露盤(原文では鏤盤)の下」というのはおかしい。露盤は塔の頂上に取り付ける相輪の一番下に置かれた全体の基礎となる、平たい箱状の部分で、その上にお椀を伏せたような伏鉢、串刺し状になった輪を九つ重ねた九輪、火災除けと言われる水煙、そして龍車・宝珠という球形の装飾が積み上げられる。鎌は相輪の一番下の輪の所に刺されている。古老は「雷除け」のためのものだと言う。確かに鎌は鉄だから誘電はするだろうが、避雷の効果が生じるのはアース装置がされていればこそで、ただ鎌を置いただけなら、かえって火災を招きやすい。現在は避雷装備がされているが、よくも1,000年以上にわたって、落雷しなかったものだ。

  ※熊脚=詳しくは、塚本樹『熊脚について』(早稲田大学美術史学界『美術史研究』第7冊、1970)参照。


上宮王院

 またの名は夢殿、東院ともいう。(内部は)帳が垂れているので、拝見するのは難しい。

  むかし、この院が破損した時、行信大僧都が修理工事をするため、帳を開いて(中にある)像を拝もうとすると、なんと仏像ではなくて、単なる等身大の俗人の姿をした像だった。ただし(俗人とはいっても)左手で宝珠を捧げ持ち、右手を伏せて珠を覆い、考え事をする姿勢をとっている。(つまり)外見は俗人で、しぐさを見れば救世観音である。そこで、これは聖徳太子の御肖像だと分かる。御座は半畳の畳を十枚ほど重ねたもので、その上にお立ちになっている。その他に台座はないという。()僧都が(この院を)修理された時は、桧皮葺だった。西北の隅には等身大の僧の坐像がある。道詮の肖像だという。真偽は調べてみなくては分からない。


 上宮王(かみつみやのおう)とは聖徳太子のことで、上宮王院は大子の斑鳩宮の跡に行信僧都(?〜?)によって復興された伽藍。五重塔や金堂のある西院に対して東院と呼ばれる。

 本尊の救世観音を聖徳太子像だとする考え方は、古くからあったことが知られる。明治時代にフェノロサが、この像を“調査”した際には、白布に撒かれた絶対秘仏だったが、平安時代には見るのは難しくとも、帳をあげれば見られたと見える。道詮(?〜?)は、平安時代初期の僧で、行信ともども、国宝の肖像彫刻がここに残っている。

  ※桧皮葺「ひわだぶき」と読むことが定着しているが「ひはだぶき」が本当である。桧の樹皮――即ち桧の肌を使うからであって、古文にも振り仮名が添えられたものがある。発音が「ひはだ」から「ひわだ」に変化するのような事例は多々あるが、建築史家の近藤豊のように「〈ひはだぶき〉といっては誤りである」(京都府文化財保護基金編『文化財用語辞典』。などと言うのは、無茶苦茶だ。近藤はすでに故人であり、反論できないものについてあげつらうのは気が引けるが、19838月の美術史学会西支部大会で、三重県の古社寺を見学した際、たまたま近藤と朝熊山に同行した。そこで、間違いとする理由を質したが、答えは支離滅裂であった(この大会については美術史学会『美術史第150冊記念別冊』の『旅行会員の記』参照)


宝蔵

 《東院の》北の方に七間の建物がある。その東端の二間を宝蔵といい、中にはさまざまな宝物が納められている。

 俗人の姿をされた聖徳太子の肖像画一幅。この肖像画は唐の人が描いたものである。よく描けている。心を込めて拝見しなければならない。

 細字の法華経が一部(或いは一巻)。《小野》妹子が外国からもたらした経典だ。経筒のような形の縁がついた}蓋のある函に納められている。この経は、小野妹子を使いにして、大唐国の衡山般若台から持ってこさせたものだ。しかし太子がご所持されたのではなく、お弟子の経だとか。その経の第四巻『五百弟子(授記)品』の中に〈其不在此會〉と言う句があるが、〈會〉の字の下部につく〈日〉は中點に作り、焼いた箇所を巻き寄せてある。

 琥珀の数珠が二連あり、一連は濃い色をしており、もう一連は淡い色だ。の脇息が一脚。其の形はカーブしていて、三本の脚は獣の足の形をしている。御鉢が二個。一個は黒水晶で傷がついている。一個は鉄で(破損箇所が)補修されている。鉢《を入れる》袋が一枚。白綾の緒で(口を)結んである。どこが端だか分からないという。そこで伏見修理太夫がいい加減に解いたら、元通り結べなくなった。

銀の御箸が三膳。長さはは八寸(24a)ぐらいで、一膳は食事用、一膳は仏供用、一膳は御料用だ。銀の匙三枚。仏供・食事・御料用と。使途に違いがある。銀製の仏像の形をした印は、天皇の御璽のような形でもある。二寸(6a)角で、小さな四角い箱に納められている。

 黒字の法華経()疏四巻。香表紙で軸は沈香。箱には入っている。この疏は太子の御自筆で、楷書・行書・草書が入り混じっている。

 《紺紙》金泥の梵網経二巻、箱入り。この経は太子の御自筆で、外題の下に御手形が捺されている。つまり、御手形を捺された上から、外題をお書きになったのだ。ぜひ拝見すべきものだ。

 御夜具一揃い。綿の包みに入り、大きな箱の蓋にいれてある。この御夜具は、因幡国気多郡欝美里の能曾比部小人が調として納めたもので、長さは八丈24b)、幅は一尺九寸(57a)、色はやや黄みがかっている。

 几帳一具。この几帳の表面には、太一の右の御足跡がある。此れは未来の衆生と縁を結ぼうという思し召しで、おつけになったものだ。

 袈裟一領。この袈裟はガンダーラ国から寄進された。

 塵払い二本。一本は象牙の柄で、木目のような模様がある。柄の両端は木の葉が纏いついて唐草になったような格好だ。葛(唐草)は太子の紋である。唐の塵払いの形式だそうだ。もう一本も象牙でできていて、柄は竹の形をしていいて、団扇の柄のようだ。白い猪の毛を飾りにつけている。ただ、其の毛は(殆ど)抜け落ちてしまって、柄だけが残っている。日本式のものだ。

  琴一張。長さは三尺=九〇a=ぐらい。この琴の糸は朽ちてしまっている。また柱がない。漆を塗って、その上に白い点がある。

 甘竹笛一管。長さは一尺八寸(54a)ほど。この笛には、三つの節があり、形は篳篥(ひちりき)の管のようだ。これは尺八だろう。

 象牙の物差一枚。長さは八寸(24a)、幅は八分(2.4a)ほど。

 瓢の餌袋一個。中に蓋がある。表面に仙人や竹・木のを彫り出してある。

 御弓一張。長さは五尺=一・五b=余り。梓の木で造られている。矢が三筋。この弓矢は(太子が)守屋大臣と合戦した時に使われたものだという。

 水晶玉や琥珀などが、玉で飾られた透明な袋に納められている。夜光珠が一粒。直径は一寸(3a)で、さらに五粒あり、この六粒は連なっている。四角い琥珀の立方体が三つ。これらも一連になっている。水晶の四角い立方体が二個。水瓶形をした水晶が一組。連なった(露のような水晶)が三個。

 以上の物の内、脇息・御鉢・お数珠といったものは、太子が前世で、大唐の衡山般若台で南岳大師らと議論されたときのに使われた物なのだそうだ。

 仏舎利が一粒。白くて、豆粒ほどの大きさだ。太子がお生まれになった時に、この舎利を握っておられたと言われている。東大寺の西室の延喜講師が言っている。太子はお生まれになって、二歳になられた春のこと、東方に向って合掌され、「南無仏」と称えられると、掌から零れ落ちたというが、この事は太子の伝記に出てこない。根拠があるわけではないが、延喜講師とは證果上人のことである。だから、この説を信用しよう。そもそも延喜講師の初果の因縁は、安居していて東大寺講堂で講演が行われた際に、延喜講師が 【以下、欠落】

 原文では、いきなり「北に七間の亭あり」と書き出され、何の北側かはにわかに断定はできないが、恐らく夢殿の北にある、現在は「舎利殿」「絵殿」と呼ばれている建物のことだろう。しかし、現在の建物は鎌倉時代のものだ。建物は違っても、舎利殿が平安時代から江戸時代まで、宝物庫の役をしていたこと間違いない。親通はここにあった宝物を数え上げているが、これらが全部ではなかったろう。江戸時代になっては屋代弘賢が『道の幸』「舎利殿にいたる……宝物あまたあり」として,南無仏の舎利や『法華経義疏』を見たことを記している。また、明治時代になって、法隆寺が財政危機に瀕した時、宮廷からの御下賜金1万円をいただいた御礼に、寺に伝わる“お宝”を奉納した、いわゆる「法隆寺献納御物」、戦後は国有化され「法隆寺献納宝物」と呼ばれる東京国立博物館の所蔵品の中には、この宝蔵にあったものが含まれている。親通の言う「黒字(墨書)の法華経義疏・金泥の梵網杏・琥珀の数珠・象牙の物差し・弓が該当すると思われる。『法華経義疏』は「此是大倭国上宮王私集非海彼本」という書き込みのある、太子自筆と伝えられる一巻だ。これは献納御物宝物の多くが国有化されたのに、未だに宮内庁が抱え込んでいる。太子が前世で使用したものが伝わっているとは恐れ入るが、太子崇拝の様式の一端が知られるのは面白い。

  舎利は、太子が2歳の時、東方に向かって合唱し「南無仏」と唱えると、合唱した掌から零れ落ちたものだというが、半裸の童子が合掌している格好の像を「南無仏大使像」といい、全国に作例は多い。

 各品の説明は、分からない点も多い。細字法華経の字の説明の「焼いた箇所」とはどういうことなのか?仏像の形をした印の原文は〈印佛〉だが、璽印の如しというが〈印佛〉は木版で刷られた仏像を意味するが、璽印に似ていると言うから、仏像の形をした印鑑があったのだろうか。

 他に、いろいろと太子縁の品の紹介のうちに“尻切れトンボ”で『私記』は終わっている。

七間の建物=現在、舎利殿と絵殿と呼ばれるる二つの堂がが、中央1間の吹き話し通路(通路=うまみち)で連結されているしている一括して宝蔵と呼ばれていたのだろう。平安時代には通路があったかどうか分からない。

衡山=中国・湖南省にあり、南嶽ともいい、崇山・泰山などと共に「道教五嶽」の一つ。

  ※象牙=象と読んだ字は、印影本では八の下に馬みたいな格好の字()が組み合わされたもので、何とも判読しがたいが、印影本の釈文に従って象にした。脇息に仕立てられるような牙と言えば、象牙ぐらいなものかとも思える、香表紙と言うのも正体不明。沈香(じんこう)の軸と言うのは香木を巻物の軸にしたということだが、香病死と言うのは、表紙がにおうのか――など。

 ※傷がついている=「補綴(ほてい)されている」と言うが、平安時代の鉄製品の修理とは、どんな屋路肩だったのか?

 ※伏見修理太夫=『氏拾遺物語』に出てくる藤原俊綱のことか。頼通の子で『宇治拾遺物語』では、大変な符号のように書かれている。日本最古の庭園理論書『作庭記』のちょしゃでもある。

 ※御科用=皇族や貴人のための物品。衣服・道具・飲食物など。

 ※鬱美里=邑美郡のことか。それならば現在の鳥取市の辺り。

 ※塵払い二本=原文は「塵尾ニ枚」。〈枚〉にはものを数える単位に裳使われるので、2本とした。

 ※天皇の璽=璽は皇帝や王侯の印章のこと。国の印象派国璽という。

=草木の蔓(つる)の意味。植物の曲線模様だから「唐草」とした。

 ※延喜講師=延喜年間(901~923)に宮廷内で行なわれた『日本書紀』の講座の講師のことか。

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©古典紀行訳註シリーズ 2012